第42話 博労ケ淵の戦い
家康は木津川口を掌握し、さらなる西方面の攻囲を進めるべく11月28日、水野日向守勝成、永井右近太夫直勝に対し、博労ケ淵の形勢を偵察させた。掘丹後守直寄は命は受けていないが進んでこの軍に加わった。
博労ケ淵は阿波座(阿波国の商人たちが居住していたからという)の西端にあたり、天満に隣接し、南北に堀があった。近くには狗子島と蘆島と呼ばれる中洲があった。大坂方は堤上に井楼を築き堀を造り、東西には柵を設けて西の防御拠点としていた。
主将は薄田隼人正兼相で700の兵を以て守っていた。薄田兼相の出自ははっきりしない。小早川孝景に仕え、又岩見重太郎と同人説もあるが、全く不明である。いつ頃からかはわからないが、秀頼に仕え、豪勇の士として知られるが、遊興ぐせもあったようで、それが失態として現出する。そして、「橙武者」として
さて、水野勝成と永井長勝の両将は具に博労ケ淵の防備の状況を調べ、家康に報じた。そこで家康は両将に対して狗子島に付城を築き、大筒を以て井楼を破壊するよう命じた。両将は準備を整え付城を構築するが、その日のうちには完成せず、夜間放って置くわけにもいかず、勝成は直勝に言った。
「右近殿は御本陣に参られ、この旨を言上されたし。
それを聞いた直勝はすぐ返事をせずしばし考えた。
(そういえば、こやつ若い頃よりおこがましき男であった。きっとわしを出し抜き、一人占めにて博労ケ淵を乗っ取り、一人功名手柄にしようと思うておるに違いない)
直勝は騙されないぞとの思いにてこう言った。
「某一人では参るまいぞ。共に参ろうではないか」
勝成は
(疑うておるな。いた仕方なし)
「では、共に住吉まで参ろう」
と言った。勝成は承知するほかなかった。しかし、これが二人にとって功名手柄から外れる事態となった。住吉の本陣へは直線距離は短くとも、遠回りをしなければならず、往復に半日はかかると思われた。この時間が貴重であった。
家康の住吉本営に石川主殿頭忠総なる者がいた。この忠総、姓名は石川であったが、名前は紛れもなく、改易排斥された大久保忠隣の次男であった。忠総は石川日向守家成の養子となり、家督を継いだが、父忠隣の処分に伴う連座により、忠総も蟄居の身の上となった。しかし、冬の陣が起こるや、その罪を許され従軍することになった。
忠総は従軍するに際し、当然ながら父の汚名を払う機会を待っていた。そして、水野・永井両将と共に狗子島に陣して、自ら三百の兵を率いていた。
忠総は将兵を集めた。
「某、この度の御供身に余りある大慶である。なにとぞ勝れたる戦功をたてて、養父への報恩かつ実父への面目に充つべきものなり。かたがたも粉骨を尽くして戦功に勤むべし」
「おうー」
そして、準備を整え夜明けを待った。
家康は攻略に際し、堺にあった大船十五隻を狗子島に回航し援けるよう浅野長晟にも命じていた。
蜂須賀至鎮は、穢多崎を攻略したあと、付近の守備を務めていたが、家老の中村右近重勝が、水野・永井両将が狗子島に付城を築いているのをたまたま耳にし驚いて至鎮に言上した。
「殿、一大事にござる。今朝ほど御旗本の水野永井の両将を狗子島に差し向けられ、仕寄を付けらるるは、明日早天に両将をもって博労ケ淵を乗っ取らるるべき御企てと存じます。殿が御先手に居りながら、御旗本衆に博労ケ淵を乗り取られなば、先頃の穢多崎の功名手柄が水になりまする。いざ、此方より博労ケ淵の砦を乗っ取り阿波座一面を占るべし」
「殿、よくよくお考えくだされ。勝手に動けば御咎めあるやもしれませぬ」
「いやいや、ここはいち早く動くべきかと。御咎めあらば、それはその時のこと。手柄を立てることが大事」
側近の者がとやかく口を出すので、右近はそれを制した。
「方々、ここは殿が御決め申すもの。口を出すでない。殿、この右近推して博労ケ淵の砦、一番乗りにて御取りなされませ」
しばし、至鎮は考えて決断した。
「あいわかった。右近。仕度を整えさせよ。出陣じゃ」
「はっ。ものども!出陣の用意じゃ」
「おうー!」
夜に入り冷たい雨が降り始めた。寒気厳しく、ましてや雨により冷たさは増し、川は増水して、川は船をりようしなければ渡れない状況だった。それでも、このような時こそ油断は禁物だった。忠総の兵も周囲を警戒し、大坂勢も警戒し、井楼より動くものあらば、銃をもって応えていた。
29日黎明忠総は一刻も早く攻撃に移ろうと動き始めたが、まだ十五隻の船は到着せず、船なしでは川の水量まだ多く、流れも早い。これでは船なくば兵を渡すことなどできない。
一方蜂須賀は、先じられてはとの思いから、早々と用意した船にて森甚五郎衛之がこれを率い、陸路は中村右近が率いて阿波座から侵入を図った。森甚五郎は船を操り銃を射ちながら砦に迫った。陸路をいく中村右近は自ら先頭にたち槍を揮い、城兵を蹴散らしながら阿波座に侵入して行った。
忠総は蜂須賀の旗印を掲げた水軍が砦に攻めいく様子を見て怒りの声をあげた。
「船はまだ着かぬか!蜂須賀に遅れをとるとは不覚千万なり」
そんな中破れた小舟が波間に漂い流れているのを見つけた。
「船が漂っておるぞッ!こちらに流れよるぞ!」
中村弥兵衛は神田九兵衛らを呼び寄せ、槍を伸ばして船の舳に引っ掛けてなんとか岸に寄せた。
「これにて一番乗りいたそうぞ」
「おっー」
中村弥兵衛はその場にいた総勢八人で小舟に乗り移ろうとした。それを見ていた松井角太夫がその行動を制した。
「小舟とはいえ、破れた船ではないか。鎧武者多く乗り込んでは渡れまい。後に続く味方もおらぬ。馬筏を組んで渡すべしと存ずる。しばらく待たれよ」
「待っておったら一番乗りできぬではないか!」
勇み立つ武者共は角太夫の忠告など耳にも掛けず、槍を棹として敵岸目がけて必死に船を漕いだ。まだ、雨は降り注いでおり、周りも暗い為気づかれることなく岸について柵に取り付いた。ようやく城兵が異変に気づいて鉄砲を放つが、八人の武者は柵を破り砦へと突進した。
この日砦の主将薄田隼人正は大坂城内より呼び寄せられ、大野、渡辺、木村らの幹部と砦の是非について議論していた。最初は大坂城を守る目的で周囲に多くの砦を設けたが、穢多崎を失い、今福、鴫野でも手痛い打撃を受けていた。守備範囲を広く取りすぎたことを反省し、このまま博労ケ淵も同じ運命を遂げるかもしれないことを憂い、逆にここは砦を焼き払って使用不能にした上で撤退すべきという意見で一致を見た。
薄田は明日命令通りに焼き払って撤退せんと心に決め、ならば今宵は青楼によって遊女を相手に酒宴を行い、沈酔して砦に帰らなかった。薄田の遊興好きが一大事を招く結果となった。その不在の時を襲われたのである。
次席の武将平子主膳は防戦にあたっていたが、敵の兵力は皆目不明であり、砦兵は慌てふためいて逃げ惑うばかりである。
(隼人正はいかがしておるのだ)
と平子は思ったが、沈酔していることなど全く知らぬことだった。
「隼人正殿、隼人正どのー!敵が襲来してござるー」
と自分を呼ぶ声を薄田はかすかに聞いた。
「敵が襲来」という声を認識すると、沈酔していた体が勝手に動きだし、跳ね起きるなり、甲冑をつけ、槍を提げて同じく青楼にいた従士ら二十人余りと脱兎の如く飛び出して砦に向かった。
「敵だとッ!して兵力は?」
「皆目見当がつきませぬ。主膳殿をはじめ幾人かは防戦しておりますが、あとは逃げ出しておりませぬ」
「なんと!お主案内せいッ!」
「は、はっ」
最初は敵襲来で慌てふためき逃げ腰であった守備兵も、敵があまりにも少人数であるのに気づき返しはじめた。砦を襲撃した八人は逆に大勢の守備兵が自分たちの兵の少なさを察知され、逆襲に転じて向かってくるのを見届け、柵を閉じて防戦態勢に入った。
薄暗闇の中遠くでこれを眺めていた忠総は、渡る船なく切歯扼腕するばかりであった。何か手はないものかと落ち着いて考えると、狗子島に九鬼守隆が居たのに気が付いた。
「誰かある。九鬼長門守に船の借与を頼んで参れ」
と使者を遣わすと、守隆はそれならばと5艘の船を貸してくれたのである。
忠総は大いに喜び、
「此のご恩、子孫まで忘れじ」
と叫び、到着した船に家臣共々乗り込み、川を渡り博労ケ淵へと急いだ。
薄田隼人正兼相は敵に砦を奪われては一大事と暴れまわるが、柵が邪魔で容易に進み得ず、しばらくすると蜂須賀の手勢が河より、そして陸地より迫ってくるのが認められた。此のままだと、自分たちの退路が断たれてしまう可能性があり、仕方なく兼相は砦より退却を命じた。忠総はそれほどの犠牲もなく砦を攻略したのである。
忠総は蜂須賀に使者を派遣し、博労ケ淵の攻略を報じた。大坂方の平子主膳父子は、これまでと断念し小舟に乗って脱出を図ったが、水路を誤り敵中に入った為葦の間に隠れていた。東軍の池田忠雄の船手奉行横川次太夫は石川・蜂須賀が砦を攻めるのを見て、遅れてはなるものかと船を進め、陸に揚がって旗印を掲げ、その付近を探索するとそこに隠れている平子主膳父子を発見した。主膳父子は船で必死に逃げようとしたが、船奉行の横川らの扱いには問題とならず、あっけなく首を取られ、家康の元へと送られた。
蜂須賀は砦を奪うや、すかさず阿波座も占拠した。忠総は土佐座を占領した。ここで蜂須賀至鎮は討ち取った首七つを持って住吉の家康本陣に届けさせ、博労ケ淵の砦を一番乗りで奪い取ったことを報告した。これに家康は大いに喜び
「阿波殿に至っては、穢多崎の高名に続き、この度の武功抜群である。追って感状を下すであろう」
その後遅れて石川忠総の使者が到着し、砦をとったことを報告した。自分が一番手柄を思いきや、意外と二番手だったことがわかり憤然とした。しかし、家康は褒め称えた。
「さすがは忠世の孫だけのことはある。褒めて遣わす。忠総二番乗りじゃ」
蜂須賀にまんまとやられて、忠総は悔しくてならなかった。暗闇の雨が降る中、川は危険なりとその行動を制した松井角太夫は、その浅慮を恥じて、冬の陣が終わるや、禄を捨てて浪人したという。
また、同じ29日、南中島の中津川と天満川の間に位置する野田・福島には、大坂方は船を浮かべ、大野道大治胤が800の兵を率いて守っていたが、九鬼守隆、向井忠勝、戸田達安、花房
敗れた大坂は、湾の出入り口を全て失ったことは大きな痛手となった。城内への物資の通路は塞がれたのであった。
大坂城の壁には次の落首が書かれてあった。
“博労ケ淵に隼人く身を投げよ 薄田なくも名を流すより”
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