第44話 真田丸の攻防 後編

 前田利常は、本多安房守政重に先鋒を命じ、篠山を取り巻いて、敵兵を討ち取り占拠するよう命じた。


 4日早暁本多は前進を開始し密かに篠山を目指した。まだ日の出前なので薄暗く、周囲は静かだ。物音を立てない様に静かに篠山に近づいていく。しかし、あまりにも静かだった。不気味な静かさだった。ましてや朝霧が立ち込めはじめ、本多らは敵の気配なく何か騙されているのではないかと思うほどだった。しかし、絶対に潜んでいるはずだと思って篠山の頂点に行き着き、霧の立ち込める周囲を探索した。しかし、全く誰もいなかった。前田軍は呆然としていた。周囲は明るさを増しているのはわかるが、霧のため遠望は聞かない。真田丸の影さえも見えない。

(察知されておったか?あるいは油断して城内にて休んでおるか?)


 真田丸では、幸村が目を覚ましていた。

「半左衛門、そろそろ篠山についた頃であろうか」

「先ほど、フクロウの鳴き声が三度聞こえますれが、篠山で敵は退屈をしておりましょう」そのフクロウの鳴き声は佐助の合図の声であった。予定通り、敵は篠山に到着したのである。

「左衛門佐殿、敵はこちらへ攻めてまいりますかな」

「どうであろう。目の前に此の邪魔な真田丸が聳えておる。攻めてみたいと思うのが、普通の武将じゃ。普通ならのう。どうじゃ、半左衛門、久しぶりに一手やらんか」

「そうですな。やりますか」

 半左衛門は碁盤を取り出し、二人はこれからの戦闘のことを忘れて差しだしはじめた。


「敵はどこにも見えませぬ。篠山は我が掌中でございます」

「うむ。摂津殿、どう思われる」

 本多安房守は奥村摂津守春重に尋ねた。

「肩透かしを食わされた思いでござる。備えを重ねて攻めたるに何もなく、槍を揮わずにこのまま引くのは前田家にとって暇瑾かきんでござる。このついでに真田丸を攻め破って功名を立てようではござらぬか。此の霧では敵も気がつくまい」

「おう、わしもそう思うておった処ぞ。合点した。者共!進め!目指すは真田丸!」

 本多隊は真田丸に向かい突進を開始した。この行為を見た二番隊の富田越後守重政(富田流を広めた人物)は、

「出丸を攻むるは私事なるぞっ!厳命を蒙って共に攻むべきである。抜駆け無用!」

 と叫んだが、勢いに駆られた集団は止まることはない。

「それっ!進め!」

 この本多隊の突進を目にした同じ先鋒の山崎長門守長常、同閑斎らは、

「本多隊に遅れてはならじ!」

 と、山崎隊に突進を命じたため、数千の前田の先鋒隊が真田丸に向かって行った。夜明けが迫るとともに、覆っていた霧は薄れてきだしていた。前面にはだかる深い堀と柵がうっすらと見え始めた。まだ鉄砲に音はない。静寂だ。

「敵はまだ気づかぬ様子!奇襲あるのみ」

 堀を下り一つ目の柵を壊し、深くて10間ほどある堀を下りるが登る先には二つ目の柵がある。この堀を登るには、梯子がなければ至難と思われた。


 真田丸では鉄砲隊が銃身を並べ、待ち構えていた。

「左衛門佐殿、敵は堀前の柵に取り付きましてござれば、発砲の合図を」

「いや、まだまだ早い!。今撃っても効果はなし」

 空堀の前面に構築してある柵までおよそ15間はある。20間の射程距離は充分な有効距離であるが、幸村は確実を期すために、空堀内にて封じ込める作戦を考えていた。空堀から先に行くもならず退がるもならずを作れば申し分ないと考えていた。それには、空堀にある程度降りてもらわねばならぬのだ。


 幸村は従兵の中でも声の大きい者を選び耳打ちした。その従兵は櫓上に登って押し寄せる敵に向かって言い放った。

「夜の内より出丸の近辺へ人数を出さるるのは夜討ちの御稽古でござろうや。はた又追鳥狩の思召しであろうか。日頃は雉子、兎の類は多くあろうが、この頃の鬨の声に驚き遠くへ逃げ失せれば、鳥獣とてはあるまじく候。もし徒然の儀とならば、この出丸を一攻め攻めてみせよ。この出丸真田左衛門佐幸村と申す信州上田の浪人が堅めたるものなり。はかばかしくではないが、上田の鍛治共に打たせたる矢の根少々用意いたしておれば、重代の御物具の札をもためして御覧じたまえ」


 この言葉に前田の諸将怒りたった。本多隊の奥村春重は若武者であったので、

「えぃ、北国勢の手並み思いしるがよい。者共壁に取り付けぃ!」

 本多隊、そして山崎隊も柵を破り空堀を下り、堀を登りて柵を破り壁にとりつかんとしていた。もうそろそろであった。幸村は号令した。


「武名を成すはこの一挙にあり!敵を潰せ!」


 一斉に弓と矢を放った。前田隊は矢盾も鉄砲避けの竹束もほとんど持ち込んでいない。近距離であれば、矢も鉄砲も外れる事はない。寄せ手の前田隊の先頭集団はバタバタと倒れる。遮る物なく、後ろに続く者も伏せるが、盾になるものは前に倒れる仲間しかない。それに比べれば、真田の兵は銃眼や矢狭間から射っているので、誰もやられていない。前田隊も後陣の兵が鉄砲や矢を放つが、所詮無意味なものでしかない。塀下に取り付いても、石陥より槍を突けられ、石を落とされ散々な程を現出する。前田の将兵は頭もあげれず、伏せているだけで全く身動きできない状況となっていった。前進しても殺られ、後退しても殺られる程だった。


 井伊直孝隊は八丁目口前に陣を置いていた。その東、前田利常との間には、松倉重政、榊原泰勝、桑山一直、古田重政、脇坂安元、寺沢広高が陣取っていた。直孝の西は松平忠直で、藤堂高虎は忠直の西にあった。その西松屋口前は伊達政宗である。


 井伊直孝の元に、前田隊が未明に真田丸に向かったとの報せを受け驚愕した。そんな軍命令はまだ出ていなかったからだ。真田丸の方より喚声と銃撃の音が聞こえてきた。直孝は物頭般若内膳を高虎の元に遣わした。

「和泉守殿、加賀の軍勢夜中に真田丸に押し寄せ、独り功名をたてんとしており申す。いざ我々も押し寄せ攻め破ろうと存ずるが、藤堂家は如何されるや」


 井伊勢は赤地の旗に金をもって八幡大菩薩と記したもので、馬印は金の蝿取なるを馬の脇に引きつけて押し寄せていった。

 高虎はこのことを聞き、攻撃は今か今かと待ち構えていたことなので、軍令のことなどないこと構わず、

「尤もなり!我らも功名手柄を立てん」

 と藤堂勢も竹束を用意することなく、者共進めと命じた。


 松平忠直も井伊、藤堂に出し抜かれて口惜しく思い、結局何も策を講ずることなく部隊に前進を命じた。


 松平の先手本多飛騨守成次の息淡路守重能は真っ先に進み、旗奉行の藤木九左衛門は、金の芥子殻の出付けたる白に中黒の吹貫、金の棒の下に黄色の暖簾付けたる大馬印、大竹棧に角取付けたる小馬印を押立てて進んだ。吉田修理亮、高尾越後守、山川讃岐守、多賀谷右近、萩田主馬、梶原美濃守、太田安房守、菅沼久彌、朝比奈無道、黒幌の使番原隼人、佐原平左衛門、石川佐左衛門、藤田大学、大井監物、長田四郎兵衛、長柄奉行真瀬左衛門らが遅れじと突き進む。 


 諸隊は何ら統率指揮されることもなく、別々に真田丸、そして大坂城へと殺到した。


 井伊の先頭と松平の先頭は相乱れて、城壁外の柵を破って空堀に突進侵入する。城兵は初め八丁目口より真田丸に指向する前田勢を側撃していたが、既に二百以上の敵兵が壕内に降り、八丁目口門の東の壁を破り突入せんとするのを見て、これを阻止するため弓銃をもって射っていたが、誤まって火薬箱に火縄の火が回り、轟音とともに黒煙が立ち上った。指揮をとっていた石川貞矩も火傷を負い、後方に退いた。東軍は大坂城の内応者が応じて爆発させたものと勘違いして、さらに勢いをまして攻め立てた。


 この内応者は藤堂高虎がくわだてたものであった。もともと家康は高虎に命じて城内の内応の策を命じていた。高虎は谷町口を守る南條中務少輔忠成に使者を遣わして内応するよう献策した。南條の伯父隠岐は高虎と親しく内応に応ずれば、伯耆一円の領地を賜るようにしようと呼びかけ、忠成はこれに応じていたのである。忠成は塀の柱の根を断ち切り、紙を貼ってその位置を示していた。この貼り紙を根来智徳院が見つけ不審に思い、七組麾下の隠目付に訴え、忠成の密使を捕らえて治長を通じて秀頼に報告された。秀頼は再度渡辺糺に命じてこれを調べさすと、塀の柱が根本にて断ち切ってあり破れるようになっていた。忠成とその配下の者30余人を捕縛した。隠岐は捕縛される前に発覚したのを悟り自害していた。その後守備を任された後藤又兵衛は、忠成の旗幟を撤去せずそのままとした。忠成は6日に切腹を命じられている。

 こんなことだったから暴発は内応者が協力したものと勘違いするのは当然だった。これがまた東軍の被害を多くした理由の一つでもある。内応者がいるならと一目散に城壁に殺到したのも当然の戦法といえた。


 井伊の先手の大将木俣安定は采配を振るい真っ先に乗り込むべしと壕中に飛び降り、鈴木主水もこれに続いた。松平の先手大将本多成重、同富正、落合美作守、吉田修理等も井伊に遅れてなるものかと、先を争う様に壕中に飛び入り石垣へと攻め登る。

 大坂城内では木村重成も、さらには長宗我部盛親も銃隊を率いて駆けつけていて敵に備えていたからたまらない。

「放てッ!」

 狭間より一斉に放たれた銃弾は井伊、松平の兵に降り注ぎ、バタバタと壕内に倒れ伏す。兵は後から続くが、さすがにたまらずに

「引けっ!」

 井伊の木俣も松平の本多も銃弾を受け負傷し壕内にて身動きできない状態となった。


 真田丸では前面の壕中に前田隊が屍、負傷者が累々と折り重なる様になっている様を眺めていた。負傷者は激しい銃弾で身動きも取れず、負傷していない者もいわゆる釘付け状態であった。壕に突入していなかったものは徐々に後退していく。

「左衛門佐殿、一方的な勝利ですな」

 高梨内記が楼上にて幸村と前田軍の様相を見て言った。

「いや、まだまだ。仕上げが必要だ。大助これを見よ」

 大助を呼び上げて、大助に真田丸前面での凄惨な光景をじっくりと見せた。

「戦とはかようなものぞ」

「半七殿、ご覧なされ」

近くにいた伊木七郎右衛門に言った。

「前後の締まりもなく、只血気にはやりて詰め寄せたる敵の姿、今や打ちすくめられたる体鼠の如し。かくてはたとえ百万の猛卒がこようと恐るるに足らず。けだし、今朝よりこちらにて立てたる者共も疲れ、銃筒も汚れ働きも思いのままにならずであろう。さらば新手に入れ替えよ」

 鉄砲隊は予備の鉄砲隊と入れ替わりを終わり、続いて撃ち始めた。入れ替わった鉄砲隊は銃身を冷ますと同時に、次に備えて手入れに余念がなかった。


 大坂城を攻めるは前田軍だけではない。前田軍は真田丸にて苦戦していたが、藤堂、井伊、松平などの諸将は大軍をもって、大坂城と真田丸を攻め立てていた。東軍は大坂の反撃により死傷者相次いだが、統率を取り戻して態勢を整えて、大坂城をさらに攻めた。


 松平の先手の大将の一人本多次郎太夫は堀際に進んでいたが、忠直の弟出羽守直政は十四歳で初陣ながら、先頭で指揮して薙刀を揮い壕中に下りんとするのを、家臣天方山城はこれを見て遮り、

「大将軍は士卒に先立ちて塀へ着かぬものでござる。士卒とともに進み、士卒とともに退き給うものなり。此処にて御下知あれ」

「わかった。ならば予は此処にあるべし。馬印は塀際に立てよ」

 と命じたため、天方は馬印をとって塀下に立てた。


 銃撃と喚声は本営の家康にも聞こえてきた。

(ちと早すぎると思うが、大坂城の中に入ればどうにかなるじゃろ。だが、気がかりは真田丸のこと)

 と家康は嫌な予感で過ごしていた。勝利の報せが来れば吉であったが、それは不安的中のものだった。

「前田勢、真田丸に攻めかかるも、激しい銃撃を受け、空堀より動けず、死者手負い数知れずとのこと」

「松平忠直様、苦戦」

「井伊勢、大坂城堀にて進退ならず」

 家康の顔は困り果てた顔つきに変わっていた。

「五の字どもを走らせ、直ちに兵を収めよ」

「はっ」

 五の字とは使番のことで、五の字の旗印を挿しており、仲間を指すと言われている。伝令隊の一員である。


 家康は使番を諸将の元に遣わし、兵を早急に引き上げるよう命じたが、どの部隊も激しい銃撃にさらされ、退くことさえできなかった。大東亜戦争での日本軍が米軍から浴びせられた十字砲火と同じである。機関銃はないが、身動きできぬほど激しい銃撃だった。大坂城内にはどれほどの数の鉄砲や弾があったか想像できよう。

 家康は辛抱がならず、

「帯刀!」

 と安藤帯刀を呼び寄せた。

「直ちに、加賀と彦根の兵を収めしめよ」

「はっ」


 安藤帯刀直次は朽色の幌を掛けた鹿毛の馬に跨って、両軍の陣中に向かい大声をあげながら、

「上意である!早く引き揚げたまえ!」


 しかし、釘付けになり壕に張り付いたままの将兵は易々と退却できない。雪崩を打つように逃げれば、それを見透かしたように、城から追っ手が飛び出して混乱を招くことは百も承知のことだから尚更である。それを防ぐ手立ても考えねばならない。それに、前田も井伊も意地があった。

「井伊の方々が退かば、こちらも退き申そう」

「前田が引かぬのに、何故こちらが退き申そうや」


 戦線は膠着しだしたが、徐々に敵兵が後退しつつあるのも読めてきた。幸村としては、そろそろ城外へ出てひと暴れする時と考えた。

「大助、馬を用意致せ!ひと暴れして参るぞッ!」

「はっ、父上」

「半左衛門、功名手柄立てんとする強者どもを集め、うって出るぞ。半七殿もよろしいか

「はっ」

「そなたは別に部隊を率いて西から討って出られたし。但し退きの合図があらば直ちに引き上げらるべし」

「御意」

 伊木七郎右衛門遠雄は西門に向かい騎馬隊の準備を命じた。

「大助!準備はできておるか」

「はっ」

 

 幸村と大助は選りすぐった精兵五百を率い東門より、伊木は同じ五百を率い西門よりうって出た。幸村は真田家の旗印である金の六文銭の旗を押立て、赤備えの甲冑にて敵中に斬り込んでいった。伊木は熨斗の馬印をたて一気に敵中に斬り込んでいった。武田家の軍法“疾風の如く”動いた。


 退却を開始していた前田、井伊、そして松平の軍勢は支離滅裂な状態で退却に移っていたから踏みとどまって応戦する暇などなかった。真田隊のなすがままとなった。真田隊も首をいちいちとっている場合ではなかった。敵は敗兵と雖も、こちらの何倍もの数である。とにかく蹂躙して回った。


 戦闘に参加せずにいた松倉、寺沢の部隊もその勢いに飲まれ、四散していった。しかし、後軍として残っている前田、松平の諸隊は兵力もまだ温存されているので、

「敵は寡兵ぞ、真田如き怖るるに足らずじゃ。踏みとどまり、封じこめよ!」

 幸村は後方にしっかりと陣を構えているのを確認すると、これ以上の深追いは自ら窮地に陥れることになると思いそろそろ潮時と感じた。ちょうどその時に城から合図の法螺の音が聞こえてきた。

「大助!これまでぞっ、引くぞっ」

「はっ、父上」

 真田隊、そして伊木隊は脱兎の如く真田丸へと引き返した。


 真田丸の空堀と周辺には、まだ東軍の諸隊の兵の手負いの者、無事な者も数多残されていた。もはや退却には日が暮れて暗くなるのを待つしかなかった。むやみに動けば狙撃されること十分であったからだ。

 真田丸からの銃撃も動くものがあらば撃つしかなかった。戦いは一方的な大坂の勝利で幕をおろそうとしていた。


 夕暮れになり、幸村は大助とともに楼上にたち、城外を眺めた。東軍の屍が累々と横たわっていた。手負いの者を引っさげて逃れていく者の姿が小さな姿だが見える。

「大助よ、この光景よく眼に焼き付けておくとよい。人は学問をせざれば道に達し難し。冨貴は我らの望む所にあらず。そのわけは今日この城を攻めし四家の者共は何も当代の勇将である。さりながら今となりては身上重き為に士卒に至るまで合戦を大切に相勤めず。軍役とばかり思える故に不覚を覚えたり。一概に論ずることはできぬが、世上の様を見るに身上貧しき者は義を知り、身上冨貴なる者は不義なり。貧者は義を知ると雖も力足らぬ故に不義に陥る。人は患難に遭わざればその意知り難い。この四家の者共も小身なる時は自ら槍を揮って敵陣を突き崩せる者であった。だが今は一国一城の主なる為家士皆相応に禄にありつくが為、吾が一人の大事とは思わず、かように脆く敗れたり。人は只義こそ重いものだ。これ忘れるでない」

「はい、父上。この重大なるとき、しかと覚えましてございます」


「孝亮宿禰日次記」には「去四日大阪表城を責む、越前少将勢四百八十騎、松平筑前勢三百騎死す。此の外雑兵死者其の数を知らずの由風聞あり」

 とあり、

「慶元記」には「加賀勢の討死千三百人、越前勢の討死千四百人、井伊家の兵五百八十人、藤勢四百余人、大和組三百四十余人にて凡そ五千余人の討死なり。城中には討死三人、手負一人なり。尚寄手の手負は三千人に余る」

とあり、これを信ずれば八千人もの死傷者がでたということになる。特に加賀前田家の死傷者の数は記録されておらず(恐らくは不名誉の為であったか)、正確な数字が判明しないが、千から千五百の死者、それに倍する負傷者があってもおかしくはない。それというのも指物に当たった鉄砲の数が7箇所8箇所あったという記録もあり、また利常の黒母衣衆だった森権太夫の母衣には48箇所もの銃弾の跡があったというのだ。ものすごい射撃だったことは確かである。


 戦いの一日は終わった。これほどまでの負け戦は東軍にとっては初めて味わう屈辱の日となった。家康はこの損害に懲りて、力攻めは諦め、違う方法、すなわち精神的痛手を与え、和平を結んで敵の勢力を弱める作戦を考えだしていくのである。

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