第36話 真田丸
大坂城は秀吉の命により築かれた城であり、その規模は当時の絵図や記録からしか全貌は掴めない。戦後、家康はその城の上に新たに城を築くことを命じた為、発掘調査によって想像されるだけであり、本来の姿は判明しないのも事実である。そして、その攻防に名を残した真田丸の全貌も明らかではない。調査により明らかになっている部分もあるが、確実ではないことも事実である。そういったことでは、此の当時の模様を描くには、それぞれの想像力を駆使して語ることになるのも面白い魅力かもしれない。
絵図面によると、本丸、山里丸、二の丸、三の丸の四大廓より構成されている。本丸の中央に五層の天守閣がそびえたち、千畳敷、黄金熨斗付の間がある。南方の桜の門を大手とし、山里丸は本丸の北に並び建てられ、その北方の筋鉄門を搦手とする。本丸と山里丸を囲むのは二の丸で、ここに四門を設けて三の丸に通じるようになっている。山里丸には秀吉は、
大野治長は東西不和となるや、籠城に備えて、堤を築き、櫓をたて、壕を穿ち、柵を設けて備えを厳重にした。さらには西の博労ケ淵、穢多ケ崎、福島の三箇所に砦を築き、備えを完なるものとした。
しかし、備えを準備万端と確信したのは治長だけであった。これらの備えを見聞した幸村は無謀無知なるを怒り、たまらずに治長の元を訪ね詰問した。
「修理大夫殿、ちとお尋ねいたす。籠城すると云う事はいかなることかお判りか。籠城なるものの要は、お味方の力を一に合わせ、勢いを強うするものでござる。しかしながら、今博労ケ淵その他に出城を築いて兵を分かてば、城中の守り手薄になり申す。まして、その砦を敵に奪われるようなことあらば、兵気の挫けるは定でござる。いっそ見合わせ致されては如何か」
その場には後藤又兵衛もいた。
「さよう。左衛門佐殿が申す通りでござる。敵はおそらく我が倍する兵で攻めて参りましょう。籠城するに手薄となるは言語同断。城外に砦を築き少しばかりの兵を置いたところで、何の役にも立ち申さぬ。敵に奪われ、兵を失うだけでござる。後詰もなく、遊撃もないのに、砦を設けてはなりませぬ。直ちに打毀し、大坂城内に戻るよう御指図なされ」
「いや、砦は大坂城より近い。何かことあればそれこそ望むところ。城内より討って出て、敵を蹴散らすだけでござる。それとも大坂の兵は腰抜けで敵を追い払えぬと御思いか」
「うーん、しかし・・」
兵法の何かを知らぬ治長に幸村、又兵衛は呆れてしまい、これ以上は言っても無駄だと感じていた。
幸村はそれから、数日に亘って大坂城の南方の地形と城郭の縄張りを具に見ているうちに、ここだと思う場所を見極めた。それは、やはり父昌幸が生前指摘していた南から攻めるに弱き場所があると言っていたところだった。その地形といい、場所といい、ここに出城を築けば、関東方はここを攻めずにはおられまいと思った。
ちょうど視察していた時、又兵衛も見にきていたようで出会った。
「左衛門佐殿も、此の場所が気になるようでござるな」
「左様。又兵衛殿もやはり気になり申すか」
「うん、ここに一つ目立つ櫓でも立て申せば、関東方は目立つ存在の櫓を一目散に攻めてこよう。まして此の又兵衛が守るとあらば、高名欲しさに我も我と押しかけてこよう。働きがいがあるというもの」
「それは、良いお考えでござる」
「そなたはどう備える」
幸村は又兵衛の方を向き直して力強く言った。
「できうれば、ここに新たに廓を築きたいと思い立ってございます」
「なんと、出城と申さるるか」
「御意、しかも大坂城を守るための城でございます。此の少し高台を整地し、柵を設け、壕を掘り一つの城として機能するものでござる。この地ならば、岡山か天王山に陣を構える筈。そこからなら、よく見え申そう。きっと邪魔な存在と攻めて参りましょう。いや、攻めるよう手立てを凝らせまする。ここなら、ここに攻め立てるのも、大坂城壁に攻めるもよう見えまする。さすれば、家康は攻めて来られますまい。我が真田ここにある限り、どのような手を使ってくるか怖れて動かぬ筈でござる」
「左衛門佐殿の計略、お見事でござる。此の地そなたに譲ろう。お手並み拝見仕る」
「又兵衛殿、忝ない」
幸村は治長を介して出城を築く許可を秀頼公に請じた。一方で、治長は幸村に対しての疑念があった。九度山から脱出し尽力するため大坂に馳せ来たのではあるが、やはり兄信之が関東方にあり、裏切る可能性があるかもしれないと思ったからだ。治長は又兵衛を呼んで尋ねた。
「真田殿より出城築城の申請があり申したが、よもや裏切ることはあるまいか」
「修理大夫殿は如何にも疑い深いものでござるな。左衛門佐殿は、累代名誉の武将でござる。何で二心など懐き申そう。唯々死力を尽くして、武名を後世に残す存念のほかあるまい。何の疑うことござろうや。二心あるやもと疑念を起生せば結束は乱れまする。戦わずして敗るる最大の因でござる。むしろ、織田殿、小幡殿、解せぬところござれば、注意されるがよろしかろう」
「織田殿、それは有楽殿のことや。小幡勘兵衛殿は元武田が臣、徳川に仕えしが、遑をもらい京に暮らすうちに、東西不和を聞き及び徳川に決別し大坂に参じた由、起請文もござれば、間違いない人物。有楽殿は秀頼公とは親戚筋に当たるお方。よもや裏切ることなどございますまい」
「はて、そうは思わぬが。いずれ解るであろう」
秀頼公の許可を得た幸村は早速縄張りを開始し、昼夜をかけて突貫工事を始めた。1ヶ月程で工事を終わらなければならなかった。軍議で宇治瀬田方面への出撃が決まって居れば、それだけ大坂城の準備も十分に備えられるが、邀撃遊撃の策がとられないとなっては、関東の出陣は順調で1ヶ月もしないうちに包囲網の危険に晒されることが一番気になるところであった。出城の場所はいうなれば丘を含んだ原野であり、空堀を穿ち、柵を立てなければならない。資材も十分ではないのだ。堀はただ掘ればいいが、柵は木材や竹材がいるのだ。大坂城内にどれだけの資材があったが不明であり、此の出城近辺の伐採できる木材がどれだけあったのか、今となってはわからない。大坂城は平野に存在し、なおかつ半分は川や海に面していたから、なおさら木材の入手は難しいかったに違いない。しかし、幸村は短期間の間に出城を築いたのである。のちに真田丸と呼ばれる代物である。
当時の記録から、四方各百間の地積を占め、其の南は岡山に対し、北は三の丸の空堀へと通じている。塀柵の一間ごとに矢狭間六個を開いて各矢狭間には銃三梃ずつを
此の城のあり方を見てみると、城を守るためだけではなく、攻撃的拠点との性格を持っていたのではないかと思われる。幸村の計略からいえば、攻撃こそ最大の防御という基礎的軍事知識と、籠城していても攻撃できる時機があれば、いつでも出撃して敵に損害を与える戦略戦術を図ろうとしていたのではないだろうか。万一、真田丸が落ちても、独立している出城であれば、深い谷を隔てての大坂城の城壁に取り付くのは、容易いことではないからだ。真田丸が落ちても、まだ大坂城は健在なのだ。隣接していれば、大坂城への侵入も容易だが、独立していれば、まだ踏ん張ることができるのだ。
この真田丸が完成すると、幸村は大助幸昌以下家の子郎党180人あまりと、伊木七郎右衛門
伊木七郎右衛門は、秀吉の黄母衣衆の一人であり、関ヶ原後浪人していたが、秀頼の招きを受けて大坂に入り、幸村の軍監として真田丸に入った。伊丹正俊、平井保則も同じ豊臣譜代の臣であった。つまりは、秀頼麾下の家臣を幸村の指揮下に入れたといえばそうだが、そこには、幸村への疑念の想いもあったことは否めない。
幸村は秀頼公のため、籠城策を取ることに決まった以上、最善の策を考えた上で、徳川との対戦を企図していたのであろう。二度までも徳川を苦しめた真田の戦術戦略をもってすれば、再び苦渋を与えることができると確信していたであろう。それが真田丸の築造であった。敵に何を考えているか疑問を持たせることが、真田の戦術の真髄であるからだ。
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