第37話 大坂 中島を失う
軍議で籠城策となり、真田丸が築造されることによって大坂城の防備は大幅に増強したと言って良いだろう。そして、諸将の配置も定められた。それは次のようになっていた。
本丸 右大臣 豊臣朝臣秀頼
旗奉行 郡主馬首良列
馬標奉行 津川左近親近
扈従頭 細川讃岐守頼範
同 毛利河内守元隆
山里丸
近従 今木源右衛門正祥
同 平井吉左衛門保能
同 平井治右衛門保延
二の丸
玉造口より青屋口
浅井周防守長房
三浦飛騨守義世 計 3000人
青屋口 稲木右衛門尉教量 2000人
遊軍 木村長門守重成
西中央 仙石豊前守秀範 2000人
長宗我部宮内少輔盛親 5000人
明石掃部助全登 2000人
湯浅右近正寿 2000人
内藤宮内少輔忠豊 2000人
玉造口 織田左衛門尉長頼 1300人
遊軍 大野修理大夫治長 5000人
後藤又兵衛基次 3000人
追手口 青木民部少輔一重 1000人
槙島玄蕃允重利 1500人
西丸 名島民部少輔忠統 1300人
毛利豊前守勝永 5000人
速水甲斐守守久 4000人
西丸西北角 大野主馬首治房 5000人
京橋口 藤野半弥 3000人
升形 堀田図書頭正高 3000人
水手口 伊東丹後守長次
三の丸
東北角 浅井長房
森村口から大和橋口
野々村伊予守吉安 1200人
稲木教量
鉄砲組
玉造黒門 生駒宮内少輔正純
黒門口角櫓 旗下組 3000人
平野口 戸田民部少輔為重
真田丸背後 仙石秀範
明石守重 2000人
湯浅正寿 2000人
八丁目口 評定組 10人
郡良列
長宗我部盛親 5000人
内藤忠豊
石川肥後守康勝
山川帯刀賢信
木村重成
谷町口 織田長頼
井上小左衛門時利 3300人
北川次郎兵衛宣勝
松屋町口 大野治長
+ 真野豊後守頼包
速水守久
安堂寺橋 槙島重利 1000人
久宝寺橋 黒川但馬守貞胤 300人
評定組 1000人
農人橋から本町橋
大野治長部下
本町橋 青木一重 500人
思案橋 名島忠統 500人
平野橋 赤座内膳直規 300人
高麗橋 高松内匠
川崎和泉 1300人
今橋 毛利勝永 500人
遊軍 大野治房 2000人
天神橋1丁 評定組 2人
天神橋 伊藤長次 3000人
天満橋 堀田正高
京橋 中島氏種 2000人
東北角 南部久左衛門信連 1500人
遊軍 大野治長 1400人
城外
蒲生柵 飯田左馬家貞 300人
今福棚 矢野和泉正倫 300人
鴫野棚 井上五郎左衛門頼次
大野治長
真田丸 真田左衛門佐幸村
同 大助幸綱
伊木七郎右衛門遠雄 5000人
穢多ケ崎 明石丹後守全延 800人
博労ケ淵 薄田隼人正兼相
米村六兵衛
平子主膳貞詮 700人
船 庫 大野道軒兼與
小倉作左衛門行春 2500人
天満 織田有楽長益 10000人
(参謀本部 「日本戦史 大阪役」より抜粋)
この日本戦史では、総数を11万9600人としているが、守備兵の重複があるので、実数は9万6600人との実数を掲げている。
「大坂御陣山口休庵咄」では12、3万としており、「明良洪範」では7万3500人としているが、雑兵足軽が大部分を占めていてであろうから、実数に幅があるのも当然である。おそらく8万から9万が実数であり、戦闘可能兵力はおそらく7万前後ではなかったであろうか。
これに比べて、関東方は参陣しなかった島津勢を除くと19万以上になり、戦闘可能兵力を15万と見ても、大坂の倍する兵力との差であった。でも、城攻めの場合、攻城側は3倍以上の兵力が必要とされるから、これでもまだ足りなかったといえる。ましては、大坂は堅城であり、常道なる攻撃方法では陥落しないことは家康も承知しており、他の方法を駆使して攻めるか思案に思案を重ねたことであろう。
家康は関東方が到着するまで一番気がかりだったのは、大坂方が遊撃隊をもって四隣を却掠せんと行動することだった。現に、堺の町が大坂方に占拠されたことは打撃であった。家康は一番手近にいて行動できる藤堂高虎に出陣を命じ、高虎は10月19日には奈良北方一里ほどにある木津にいたり、26日には龍田峠を経て河内に入り、山の出口にあたる国府に至り、大和の将兵の参陣するのを待って、28日大坂城南方の天王寺方面に向かった。大坂方が堺に進出したのを高虎は知り、29日先鋒部隊は住吉に入った。大野治長は物見の報告から堺にまだいた赤座、槙島らに対し、すぐ帰城するよう促した。
だが、まだ新宮左馬助行朝だけはまだ二百余りの兵と共に、堺に留まっていた。治長は再三帰城を呼びかけ、ようやく新宮は霧が覆ったのを幸い引き揚げを開始した。その脱出路の近くにいたのが、高虎の先鋒部隊の一人渡辺勘兵衛であった。この渡辺勘兵衛は槍の名手であり、「槍の勘兵衛」と称された武将である。最初浅井氏の阿閉氏に仕え、その後秀吉に仕え、各戦場にて奮戦し、三勘兵衛と呼ばれた一人であった。その後浪人仕官繰り返し、関ヶ原後藤堂高虎に二万石の待遇で仕官した豪傑であった。
渡辺勘兵衛は千名余りで警戒に当たっていたが、物見が引き揚げていく新宮の部隊を霧の中に発見したのである。当然、すぐに邀撃するはずであるが、勘兵衛はその部隊の兵力からして怪しんだのである。
「寡兵をもって悠々として近づき来るは、どこぞに伏兵を置きて我が兵を欺き出さんとする計略なるやもしれぬ。況や霧もまだ深く遠近さえ定かでない。大坂の城近ければ用心こそ肝要である。
として行動を阻止したのである。のちに高虎は此の勘兵衛の所業を攻めた。攻撃していれば多勢に無勢であり、勘兵衛の力からすれば、新宮勢は大打撃を受けたはずである。高虎はみすみす眼前を通る敵を何もせずに易々と通過させた勘兵衛が許せなかった。
「腰抜けめ!」
と罵った。勘兵衛は悪びれる様子もなく
「撃つも止むるも潮合のあること、況や朝霧たちこめ虚実さえ定かならぬため、攻めるを見合わせただけのこと」
として屈せず、この後二人の関係は不和となっていった。
本多忠政は伊勢諸将を率いて飯盛に進み、松平忠明は美濃の諸将を率い、11月4日石川主殿頭忠綱らと合流し平野(大垣の東南二里程)に進んだ。5日高虎はさらに兵を進め、住吉神社を背にして丘陵の上に陣営を張った。一方で、福島正則の家臣福島丹波の嫡子長門が、大坂旗揚げを聞くと父と義絶し、主従二十人船にて上陸したが、運悪く藤堂高虎の支配下にあり、囲まれて全員討ち死にを遂げた。首は住吉の浜辺に晒された。
11月6日、浅野長晟は七千余の兵を率いて住吉の到着、池田武蔵守利隆、同左衛門督忠継、同宮内少輔忠雄は二万余の兵を率いて城西神崎川に達し、翌7日には城中より出陣してきた守備兵を蹴散らして中島に侵入した。
11日家康は淀川の堤を壊すよう命じた。大坂の上流4里ばかりにある鳥飼付近にてっ淀川の堤を壊し水流を弱めた。
此の日伊達政宗到着し家康に拝謁し、12日には上杉景勝、佐竹義宣到着し拝謁した。
15日朝、家康は二条城を出発し、その日に木津に宿泊した。夕刻敵の間者が賄方の下男に混入していたことが判明し、家康が急遽旅装を整え、従士35騎のみにて奈良まで先行し宿泊した。捕らえられた間者は轟清蔵といい、長宗我部盛親が放っていた間者であった。当然、拷問しても白状せず責め殺されたのであり、盛親の間者であったかであるが、大坂に清蔵が捕縛殺害されたことが聞き漏れ、清蔵のことを盛親がいたく惜しんでいたというからである。
正攻法だけが戦いではない、裏の闇討ちも戦いの一手法であった。間者を使って噂話を流す。相手を殺害する。どんな手を使っても相手を混乱させることが重要なのだ。盛親が京都から大坂に向かうに際して、家康の動向を探り、隙あらば殺れという指令は当然指示されているのだ。
家康一行は奈良から翌日の出発に際し、大坂まで間近に迫っておるので本多正純は家康に対し、
「供奉する諸士に甲冑を着すよう下知すべき」
と言上したところ、家康は笑止して正純に言い放った。
「先ず無用の事」
「ご無用と申されても、いつ大坂方が現れるか知れませぬ」
「先年の関ヶ原の時であるが、江戸の商人にて金六というもの、出発の日より具足を着して供奉しておった。近侍の士はこれを見て、金六は町人の身として人夫の取扱に奔走の身にありながら、武具を着用する事物々しく且つ永く続くべき事ではないので早う脱ぐべしと忠告したが、金六は聞き入れる事なく、わしもそのまま捨て置いていた。いずれ分かるであろうとな」
「して、金六とやらその後如何に」
「案の定、一両日して沼津の街道並木に一領の鎧がかけてあった。これを見させると金六が着用していたもの。金六を呼び仔細を問いただすと、精を出してここまで着用してまいりましたが、次第に草臥れついに打ち棄てたと言うたのじゃ。武具というは久しく着用すべきではない。いざという時思うように動けぬものじゃ。随兵は沙汰あるまで甲冑着用に儀に及ばずじゃ」
「御意にてお触れいたします」
17日家康は住吉に入り、秀忠は平野に着いた。家康は秀忠に対し明日茶臼山にて来会する旨を告げた。
中島は天満川の北と神崎川の南に挟まれる地域をさすが、中津川(現在は埋立にて消滅)がその中央を流れていた。川の北方を北中島、南方を南中島という。大坂方はここに新砦を築いて、その西南端にある野田、福島、伝法などを相連絡し、西北から西方にかけての防衛ラインとしていた。
10月28日明石全登、中島氏種等は一万余の兵を率いて天満に陣を置いて尼崎方面の東軍に備え、乗船三十三艘を置いて河口の防護とした。東軍は池田武蔵守利隆が播磨から、弟左衛門督忠継が備前より、同宮内少輔忠雄は淡路より進撃し、利隆は西宮に忠継は尼崎に陣所を構え、他の武将と合流して総数約一万五千の兵をもって対した。
11月6日、利隆は兵をさらに進めて神崎川に至り川を臨んで陣地を固めた。家康は池田利隆が尼崎を出立した報せを受けて、利隆が血気にはやり河を渡ってみだりに兵を損なうことを慮り、利隆宛に自重するよう使者を派遣し戒めた。
「神崎は大河である。舟筏を組んで静かに渡るべし。いたずらに将士を損なうべからず」
利隆は先ず家臣に命じて河川の偵察をさせ、河幅、流れ、深さなどを調べさせた。河は深く厳寒の時期でもあり冷たく容易には渡ることができない状況であり、さらに敵の警戒は厳しく河川には撤収されたのか一隻の舟も見当たらない。
弟忠継は兄利隆が独り軍を進めるのを見て不快に思い、忠継は兄の陣所に至って、
「何らの沙汰なく押し出されるのであれば、こちらも勝手に行動する」
と言い放ち、兵を進めて神崎川の下流大和田川に至る。河口に近く水流も数条に分れて水深も浅いので、馬を河中に乗り入れ、従兵七千一斉に河を渉りだした。これを見て従う戸川達安、花房職之も続いて河を渡った。大坂方はよもやの行動に不意を打たれ、一戦も及ばず周章狼狽して退却したのである。忠継隊はこれを追撃して三十余人を殪した。此の様子を見聞きした利隆は憤り、直ちに河を渡渉させた。
利隆の元には家康から派遣された軍監城和泉守昌茂がおり、利隆の出陣を制止するに及んだが、
「大御所は決してかくの如き非理の仰せあるべからず!者共進め!」
と命じ制止を振り切って、河を渡ったのである。大坂方はその様子を見て戦う事なく、天満を焼き払い、城中に退いたのだった。
もしもの説はいくらでも言えるが、治長が後藤又兵衛らに出陣を命じてこれを迎撃させていたのなら、いの一番の激戦は先ずここで展開されたであろう。
又兵衛は此のことを聞き、
(おめおめと戦も交えずに退却に及ぶとは弱兵ばかりでござる。何故渡渉の際を見て戦わず退くとは。勝機を失うとはこのこと。此の先が思いやられるのう)
と思い、どうすれば立派に戦うことができるか、悩んだことだろう。
西軍は戦う意志も見せずに退却し、西中島の西部の大仁、浦江の二村を占領したのであった。利隆らは大坂城の外堀天満川を前にして陣を構え、包囲網を形成するだけで、その後表立った戦闘は行われていない。
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