第35話 大坂の軍議
さて、大坂城に入城してきた浪人衆の主だった者をまとめてみよう。「大坂御陣山口休庵咄」に次のごとくまとめられている。
一、真田左衛門佐
五拾万石の御約束にて、人数六千計相具し籠り申し候、是は真田安房守と
申す関東大名の子にて御座候。関原以後の牢人、高野山に罷り在り。
一、長曾我部宮内少輔
土佐国一国下さるべき御約束にて、人数五千相随え籠り申し候。是は土佐
一国の大名にて御座候処、治部少と一味にて、関原以後牢人仕り、京小川
通りの上に、祐夢と名を付け、手習子を取りおり申し候。
一、仙石豊前
人数初め五千著到にて、後人数抱え申し候。是も関東衆にて御座候。石田
治部少一味にて、関東以後牢人にて御座候。京新町通り二条より上に宗弥
と名を付け、手ならい子供取居り申し候。
一、明石掃部
人数初四千の著到にて、後人数抱申し候。
一、森豊前
人数四千五百ほど、是は西国大名の由、関原以後牢人。
一、織田左門
人数雑兵ともに一万程、是は織田有楽の子、秀頼公と御一門也。公家の猪
熊殿急事の時牢人、京五条辺に居り申され候。
一、京極備前
人数六千、是は京極丹後守従兄弟、関原以後牢人。
一、石川玄蕃
人数雑兵五千、是は信濃にて十五万石の御大名にて御座候。国の仕置あし
く御座候故、家康公より改易仰せ付けられ、大坂へ籠り申し候。
一、石川肥後
人数初は五千の著到にて籠り、後人数千計抱へ申し候由。
一、後藤又兵衛
人数初六千の著到にて籠り、後人数抱へ申し候由。
一、山川帯刀
人数初二千の著到にて籠り、後人数三千程、雑兵ともに抱へ申し候。
一、北川次郎兵衛
右同断
一、三宿越前
人数雑兵ともに弐三百
一、細川与五郎
一、結城権之助
一、伊木七郎右衛門
一、名島民部
一、浅井周防
一、三浦飛騨
一、稲木三右衛門
一、南部又左衛門
一、多田藤弥
右の衆小もの也、五騎十騎づつ持ち申し候、大野修理に目見えいたし、堀
家に罷り居り申し候。
一、武田永翁
是は太閤御咄の衆にて、御陣役仕人には御座なく候。
一、塙弾右衛門
一、新宮左馬
右両人は馬乗足軽覚の者、拾騎ずつ御預け物見役にて御座候。
大野治長は且元に代わり、大坂城の実質上指揮官ならんとした。が、治長は戦上手ではんない。というより、さしたる戦の経歴もないのが事実で在り、戦国の戦の指揮など未経験なのだ。そんな彼に天下の大坂城を舞台として、大部隊を切盛りしていくことなどできるはずがない。だが、豊臣と徳川との戦いにあたって、なぜかその重要な職務を他人に譲ることなどなかった。むしろ弟治房と木村重成の方が、籠城するより前に野戦でひとあわ吹かせてから籠城と積極的な意見を持っていたくらいだった。
秀頼としては、軍議を開き意思の統一を図り、今後の策を決定せねばならないから、牢人衆が打ち揃ったところで、諸将を集め、軍議を開いたのである。
大坂城内の千畳敷の間に諸将を集め、軍議を行った。参加者は、牢人衆からは真田幸村、長宗我部盛親、仙石秀範、明石全登、毛利勝永、京極備前、石川玄蕃康勝兄弟、後藤基次、山川帯刀、御宿越前、塙団右衛門、小幡景憲らであり、大坂城組からは、大野治房、木村重成、薄田兼相、渡辺糺、織田有楽斎、織田頼長、七手衆の面々が集まっていた。
「これより秀頼公御臨席の元、軍議を重ね、関東との事に備えたい。然れば
治長は集まった将士をゆっくりと見回したあと言った。
「お味方、此度堺、尼崎に出であい、勝ちに乗じたり。これ神仏の御加護にして秀頼公のご運強きがいたすところである。この上は柵塁を堅固に構えこれを守れば、城は故太閤殿下の天下の名城にて、さらに将兵は十万を抱えておる。これを攻めおとそうといたしても、早々叶うところではござらぬ。諸国より集まる軍兵は攻めるに難儀するは必定。その期にならば、如何様にも計略はとれるであろう。そうならば、さらに我らに心寄する者出てくるだろう。とかくここは籠城あるべしと存ずる。ましてや、大御所は生来耳臆病の大将であれば、先年関ヶ原のおりも、出馬延滞し諸将の動きを確かめてのち、ようやく腰を上げておる。このたびもおそらく早急に動くことはありますまい。その間にまず茨木の城を落として心安くし、人数を分けて京都を略し、板倉を虜にし、近国の小城を踏み潰して兵威を示さば、味方になる者多くでるであろう。・・籠城に反する者共はおいでか」
真田幸村が早速進み出た。
「一言申し尋ねたい」
治長は言った。
「左衛門佐殿、何なりと尋ねよ」
「修理殿仰せの軍略は、一応もっともに聞こえまするが、左様な手立てではとても関東の大軍を蹴散らして、御家方代の基を開くには、思いも寄らぬことと存ずる」
これに治長は肩を怒らせて、
「何、何と言わるるか。その子細を申されよ」
と詰め寄った。
幸村は平然として話を続けた。
「なれば申しましょう。まずは第一の計と申されるは、いささか時機を逸しており申すが、拙者の所存を申し上げる。ただいま修理殿は、大御所は臆病なるが故に、この度も同じ暇取ろうとの事でござるが、関ヶ原の折と此度とは雲泥の差がござる。関ヶ原では天下の武士が東西双方に分かれ、東軍中にも油断のならぬ徒輩が少のうない。されば、大御所が進発に際して念には念を入れ、その見据えのついた後に踵を挙げるのは、大将として当然の仕儀でござる。臆病と仰せらるるは如何と存じあげる。してその戦の後は、故太閤の重恩に預かった輩までも、両将軍に帰服しておざれば、今は何を疑い、何をためらうものあろう。軽く兵を発して、速やかに攻め寄するは必定でござる。盤石なれば疾風の如く兵を進めるのも兵法の常道でござる。しかしながら、お味方衆緩々として、敵に宇治瀬田を越えられれば、気を呑まれる虞もあり、合戦極めて難儀となり申そう。そこで、今こその必勝の策を申しあげる」
幸村は静かに周りを見回した。皆神妙に聞いていた。一呼吸おいて続けた。
「想うに、関東北国の兵ども未だその大半は上っておらぬようでござれば、機先を制するが寛容。疾く兵を山崎に出して、我が秀頼公天王寺に御出馬あらせられ、拙者と毛利殿と先鋒を承り、長宗我部殿、後藤殿は、大和路に向かい、一気に伏見を攻め落とし、京師を焼き払い、宇治瀬田によりて食い止める。これ即ち東西の連絡を断ち切り、勝利を一挙に制するの計略でござる。東軍は長途に疲れ、且つ寒を冒して強いて河を渉るとき、これを攻め立てれば必ず利あらん。大河を控えて戦うは寡兵が大軍を防ぐ所以である。かくしても利なくば、その時に籠城するも晩くはあるまい」
後藤又兵衛、膝を扇で打ちながら
「さすがは真田殿の計略、いかにも妙計でござる!」
「拙者も御同意仕る」
盛親が幸村の計略に賛同する。又兵衛がさらに続けて言った。
「修理殿、ともかくも某と真田殿に二万の軍勢を預けられよ。まず宇治瀬田に向かい、石部の宿よりこなたを焼き払い、東国勢の足溜まりをなくし、橋を焼き落とし、船を砕いて敵の陣中へは間者を忍ばせ、何かと雑説を言い触らし、一方では木村殿か大野殿かが、洛中へ馳せ向かい、板倉を攻め立てる。大和口には明石殿と長宗我部殿向かわれ、茨木の城は七手衆のうち誰かをおしたて、主馬殿、豊前殿いずれか七手の衆と相構え大津辺りまで出張って、壕を掘り柵を構えて機に臨み変に応じて弱きを助ける。かくして万一にも宇治瀬田の守り敗れたりとも退いて大津で防ぐ。もしそれでも利を失うたとき、初めて籠城されても遅くはござらぬ」
大野以下の籠城派はあまり乗る気でなかったが、どちらか迷っている者は、幸村と又兵衛の二大軍略家が言うのであるから、籠城するより先に迎撃態勢を作るべきとの意見も出るのは当然だった。しかし、治長としては籠城以外で勝つ自信などないのだ。
「真田殿仰せは、一応御尤もでござれど、宇治瀬田と申さるるが、宇治瀬田でなくば、勝てぬような言い分に聞こえ申す。それが解せませぬ」
幸村は治長のこの言い分に腹を立てた。怪訝そうな表情を浮かべて言った。
「凡そ先ずれば人を制すと申すが・」
一際大きな声で発したが、その後は元の声の大きさに戻って話を続けた。
「国中境目の取り合いか、或いは後詰の頼みのある時は、籠城然るべしと存ずれど、この度の合戦は天下の大兵を一所に引き受けての事、将卒心を一にして、敵を悩まし敵を疑わせ、戦わずして敵を降ろすにあらざれば、結局の勝利はおぼつかのう存ずる。それを初めより進もうとはせず、退いて一城に引き籠れば、第一敵に気を呑まるるばかりでござる。何処の誰が味方に参ろうか。終には矢種、弾薬、兵糧まで尽き果て、命の惜しさに内応する者出来ぬとは限らぬ。事ここに至っては落城より他なし。進んで宇治瀬田を防がば、東国勢大河を渡りかね数日を送るであろう。その間にあちこちに間者を遣わし、東国勢合戦難義を言い触らし、誰ぞは大坂に降参せん。誰ぞは裏切るやもしれぬと取り沙汰致さば、心を変ずる大名小名必ず出ずるは必定のこと。これ地の利に拠り、一騎を以て百騎に当たり、先ず勝って而して後戦うの法でござる。して長途に疲れておる東国勢寒気を冒して河を渡れる時を狙い、その半途を討ち取り、或いは三町四町退いて堅く備え、伏兵を配置して敵の後方を襲えば、先陣後陣乱れ騒ぎます。その機会を捉え備えた兵をもって攻めに攻めれば、勝利は必定。もし万一この策敗れたる時に、後藤殿仰せの通り、退いて籠城致し、夜討ち、朝駆いたし、命ある限り戦うまででござる」
大坂方の木村重成が言った。
「我ら野戦での経験なくば、籠城しか策はないものと想うておりましたが、真田殿、後藤殿の心強き策を聴き、力が湧いてきもうした。機先を制して宇治瀬田にて迎え討ち、こと成就せなば、その時初めて籠城いたしても遅くはないと存じます。修理大夫殿、何卒、真田殿の策お承けなされませ」
ここで一人の武将が進み出て言った。
「陰ながらお歴々の策を拝聴仕っておりましたが、いささか疑念がござる」
「これは小幡勘兵衛殿、何の疑念でおざろうや」
治長が問うた。
小幡勘兵衛はのちに「甲陽軍鑑」を著す小幡勘兵衛景憲である。勘兵衛は武田信玄に仕えた小幡昌盛の三男であったが、武田氏滅亡後徳川家に仕えていた。実は勘兵衛故あって京都にて隠棲していたが、大坂方の牢人衆の招集に祭して、所司代板倉と伏見の松平定勝が謀事を巡らし、勘兵衛を大坂に送り込んだ、間者の役目を担っていた。誓詞を差し出しており、武田家のゆかりでもあったので、何の疑いもなく入り込め、しかも弁舌に巧みであったのか、有力武将の一人として軍議に参加していたのだ。
勘兵衛は幸村の方を一度凝視して治長の方に向かい言った。
「意ありて黙するは忠にあらず。もし拙者申す所に利あらば用いなされ、さなくばお聞き捨てくだされ。取り捨ては方々のご存分にございますれば、退いて案ずるに真田殿の計略は、一応可なるに憶えたるが、敵により転化することの出来難き不利がござる。即ち前将軍家は大小の合戦に馴れ給い、野草の駆け合いにせよ、或いは河を隔てての合戦にせよ、よく敵の多少を探り、剛臆を見分し、又その虚実を察して計略をたてる事、あたかも神変不思議の妙術をえたようでござる。既に方々もご存知の通り、姉川の合戦をはじめ、小牧、長湫、さらに関ヶ原の合戦ぶりを見ても、如何に名将でおわすか誰もが承知のことである。して今も今、大野殿仰せの通り、俄に発向の儀は、得こそあるべくも思われねば、先ず以て籠城の策を決し、おもむろに異変の生ずるを待つが万全の計略でござる。まして古より宇治瀬田に置ける防戦の勝敗を考えるに、源三位入道にせよ、義仲家人の今井、樋口らにせよ、又、承久の乱の時にせよ、一つとして勝利を得たためしござらぬではないか。この度日本国中の兵を駆り立て攻め寄するを、橋位焼き落としたとて防げ申そうか。敵は八方より押し寄せて裏崩れするは必定でござる。又大津辺りに要害を構え、諸処に兵を伏せ置いても、板倉、松平の両将が忍びの者を江州に入れおいたよう聞いておれば、かえって敵の計略に陥り申す。かくしてあちこちらでの勝利を失えば、敵に気を呑まれ、残る味方は二心を抱き、我が公に志を寄する輩も敵に従い申すであろう。希くはよくよく御思案あらせられよ」
これに対し、幸村は
「小幡殿御意見は、その理なきにござらぬが、古来宇治瀬田の防戦が利を失いし事は、決して今日の証拠にはなり申さぬ。古と今とでは武器はもとより戦の手立ても違い申すというもの。すなわち古は武器としても弓、槍、薙刀のみなれしが、今は鉄砲が第一の武器でござれば、合戦の方法も異なるのは理の当然。殊に河を隔てての戦いは、昔こそ勝利の希薄ければ、今日の必勝の計略、これに優るはござらぬ。此の儀、我が父安房守共々申し聞けたる事でござる」
幸村としては、過去上田城における徳川との二度の戦いにおいて、河と関わる合戦の仕方には自信を持っていた。籠城だけでは駄目であり、遊兵や伏兵の存在を持ってする戦術を以て大軍を翻弄し、敵の士気を弱め、弱体化させるのが寡兵での戦い方だ。幸村にとって、大坂城は上田城に比べれば、はるかに大きく防備を堅い。しかし、関東の大軍を阻止するにはあらゆる手立てを考えなければ、勝利への道はないのがわかっていた。
しかし、治長らの籠城主張組は、勝利を見込めぬ野戦など興味がなかった。確実な戦いは大坂城に籠り耐えることが、勝利への道だと疑ってやまなかったのである。結局は、真田、後藤らの出陣邀撃策は見送られたのである。
もし、此の出陣が認められ実行されていたのなら、両軍の戦いはどうなったであろうか、興味の大いにそそられる所ではあるが、結局、真田後藤も治長の意見に従い、逆らって出陣することなく籠城を受け入れることとなった。
しかし、その後、幸村は籠城になるならと、大坂城の弱点を強化する策に出るのである。それは、九度山で父昌幸が指摘していた南側に出城を築くことであった。
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