第34話 大坂 堺を占拠す

 堺といえば、港湾都市として繁栄した港町であったが、上方の経済の中心でもあったし、また戦国時代鉄砲の普及生産調達の栄えた商人の町でもあった。そして、茶人も多く排出した町であり、経済に文化にその後の影響を与えた町であった。当然、大坂方の大野治長らは、関東との不和が明らかになってくると、堺の存在が重要であった。米は蔵米から徴収すればよかったが、鉄砲と火薬である、鉄砲とそして煙硝を確保しなければならなかった。それには堺が必要であった。だが、堺は京都所司代の管轄下にあり、政所があって柴山小兵衛正親が僅かな兵とともに駐屯していた。


 大野治長は早急に堺を手に入れるべく動いた。

「誰か、堺を襲撃し占拠し、鉄砲武具煙硝等を調達いたせ。徳川より先に行動するのだ」

「そのお役目、某に御命じ下され」

「重利、頼むぞ。寡兵と思うても侮るでない」

「はっ」

 そこへ火急の報せが舞い込んできた。


「申し上げます。ただいま、堺の阿賀屋正斎からの使者が参り控えておりますが」

「なんと、堺からと・・話を聞こう。通せ」

 治長は客間に控えている阿賀屋からの使者の口上を聞いた。

「関東、大坂不和との主人が聞き及び、故太閤殿下との誼もあり、堺の衆を代表致しまして秀頼公に鉄砲並びに煙硝千斤を献じたく存じ運んで参りましたゆえ、よしなにお納めくだされるよう主人からの申し状でございます」

「殊勝の心がけである。右府に堺のこと悪いようにせぬと申し伝えおこう」

「ありがたきお言葉でございます。帰り主人に伝えまする。さながら、今一つ言上すべき事ございます」

「何じゃ」

「今井宗薫のことでございます。宗薫は堺政所の柴山小兵衛と相議し茨木の片桐且元に兵を頼んだよしにございます」

「何と、市正にと、いまいましい輩じゃ。こちらより兵を出し蹴散らしてくれよう」

「何とぞ、よしなにお取り計らいくだされませ」


 戦を策定しようとする時には、武具は必要である。特に此の時代にはもう鉄砲の類は必要不可欠のものとなっているのだ。鉄砲はそう簡単に調達できるものでもない。製造するにしても揃えるには数ヶ月は必要だ。それ以上に煙硝火薬の類も鉄砲以上に調達は困難を極める。大東亜戦争後期、孤立したラバウルでは、補給が殆ど途絶えたため、困ったのはやはり食糧と火薬であった。食糧は現地栽培という方法があったが、それ以上に困ったのが火薬の製造であったという。従って、堺からの申し出は大坂にとって申し分のない献上であった。


 堺では10月に入り関東と大坂の不和の話が広まり、大坂方が堺を襲撃するのではないかと憶測され、商人町人たちは、私財を船に積んで逃げようとする者、あるいや河内や大和方面に逃げようとしていた。このままではと阿賀屋正斎は、思案を巡らした。正斎は智謀にたけ、ここまで商売で成功してきた者であったので、ここは昔の堺らしく、関東・大坂と関係なく交渉しようと思いたった。残っている寄合衆を集めて提議した。


「堺の今後の事、我に御一任されたし」

「それはどうなされる御所存か」

「この不和戦乱に及び、どちらかについても戦火が及ぶべし。ならば便宜により暫くは両属して災難から免れようと存ずる。まず、大坂へは煙硝千斤を献じ、堺の町人は全員大坂のお味方と陳情して放火狼藉をまずは防ぐこと。また、所司代へは宿老を遣わし、大坂より堺を放火狼藉を働き申す旨聞こえしにより、この禍から遁るるためかくの如く相計らいしも、敵対の意志は毛頭ない事を陳情すべし。更に町の若者を200名程を集めて政所に馳せつけ、僅かばかりの軍勢では防戦叶わず、この者どもを召し連れて岸和田へ退き給えと誘引せよ。そういたせば政所眼病にて従う事であろう。大坂へ煙硝献じたる事代官五助が咎め立てすれば、老人共が恐れて致した事にて力及ばず阻むなかったと答えよ。天下再び一統なればその時対処すれば良い」

 と正斎は述べて、段取りを決めそれぞれ進めさせた。


「十二日、大坂より堺之津破るべき由申すに付、町人以下異議に及ばず、秀頼帰伏致すにより、鉄砲玉薬武具大坂城中堺より取運ぶ」(「駿府記」)


 一方、もう一人有力者がいた。今井宗久の子宗薫である。宗薫は和泉・河内両国の代官を勤めていた。宗薫は秀吉の御伽衆であったが、秀吉没後、家康に近づき仕えていた。宗薫は、徳川と豊臣に不和を耳にすると、すぐさま柴山小兵衛の元を訪ね、堺を守り関東方の兵站とすることに決めた。しかし、阿賀屋が大坂に煙硝を献上したことを聞き、大坂方が堺を支配下に治めんとすることを聞くに及んで、徳川派の財産を掠奪されることを怖れ、茨木の片桐且元へ保護を依頼した。且元の方も大坂城から退去するに際してその資財を柴山に預けており、援軍を出すことを決めた。


 且元からの援軍も到着しないまま刻がたち、町の若者衆が政所を尋ね、大坂の軍勢が間もなくやってくるであろうから、僅かな手勢では叶わないので、一緒に岸和田へ退こうと訴えた。柴山正親は眼病のため、自ら戦うこと叶わずと退くことを決め、弟五郎正綱と宗薫に同じく退くことを注進したが、五郎は留まることに決め、宗薫も且元の援軍の返事を聞いてから立退くことを言ったので、正親は若者たちを連れ、岸和田に向け退いて行った。


 大野治長は片桐且元が堺に援兵を差し向けると聞いて、槙島玄蕃允重利に堺を収め、且元の援軍を撃破するよう命じた。

「市正の奴め。やはり裏切りおったか。断じて許せぬ!」

 槙島玄蕃允は赤座内膳直規共々、およそ三百の兵をもって、堺に向かった。夜明け前であったが、まだ片桐の援兵は到着しておらず、政所も静かであった。その少し前、柴山小兵衛は、弟五助と別れの挨拶をしていた。


「兄上、兄上はあいにく眼病にて敵味方さえ見分け難しいければ、速やかに町の若衆をつれ立ち退き、治療の後、将軍家の御馬前にて高名を遂げらるべし。今退いても何も憂うることなどございませぬ。我も代官である者として、武門の家に生まれたからには覚悟はできております。敵いかほど押し寄せたりとも、逃げも隠れもせず堂々と一戦に及び、見事腹切り申す。今生のご対面はこれ最後でござる」

「五助、すまぬ。よう我を扶けてくれた」

 小兵衛のあまり見えぬ眼からは涙が溢れていた。二人は固く手を握りしめた後、小兵衛は従者の手を借り、岸和田へと退いていった。

 五助は配下の者を集めた。全部でわずかに18名に過ぎなかった。

「者共よいか!まもなく大坂の輩が襲来するであろう。決して臆するでない。背中を見せてはならぬ。我ら政所の力見せてくれようぞ!」

「おうー!」

 槙島玄蕃允らは政所を取り巻いて襲撃しようとした時、中より十文字の槍を引っさげて現れた武士がいた。周りには17名の者が控えていた。

「それがしは代官柴山五助正綱でござる。此の堺は大坂へは渡さぬ」

「おう、それがしは大野修理の臣槙島玄蕃允重利、御覚悟めされぃ」

 玄蕃允が槍を馬上より挙げた。

「かかれー!」

「おうー」

 五助らは寡兵ながら見事に暴れまわったが、いかんせん多勢に無勢次々と討たれていった。五助も槍をふるって数人を倒したが、多くの槍刀疵を受け討ち死にを遂げた。関東方にとって、これ将兵の最初の犠牲者となった。

 

 且元は堺からの援兵の要請に応えようと、13日未明に多羅尾半左衛門、富田太郎介らに命じて急いで向かわせた。だがその兵力は数十名のことだった。堺には且元の弟元重の妻や、多羅尾半左衛門、富田太郎介の妻子も堺に避難させていたというから、これは堺に向かうのは当然といえた。多羅尾らが堺の政所に到着した時には、五助ら政所の者共は屍を晒しており、大坂方の姿は見えなかったので、宗薫が邸に身を寄せることにした。此のことを聞いた、槙島玄蕃允は政所に向かったが、多羅尾らの兵は引き上げいなかった。そこへ宗薫がやってきて言った。

「片桐市正からの援軍が来たので、政所の柴山小兵衛は岸和田へ退いたと伝えましたところ、その後を追いかけてゆきました」

「してその兵はいかほどであったか」

「4、50ほどであったと見受けまするが」

「そう遠くには行っていまい。玄蕃殿、追いかけて打ち果たしましょう」

と、赤座内膳が言った。

「そうよのう。どのくらい前か」

「半刻ほど前かと」

 宗薫の顔にどこか落ち着かない様子が見て取れる。

「うん・・・間違いないか」

 と玄蕃は槍の穂先を宗薫の胸元に当てた。

「は、はっ」

「宗薫を捕らえよ!」

「何をなされますか」

 足軽らが宗薫の手を封じて、縛り始めた。

「いずれ判るであろう」

「邸に案内せいー!」

 宗薫の邸に着くと、中を探索させた。

「片桐殿の軍勢と見受けられまする」

玄蕃はニヤリと微笑み、宗薫の方を睨みつけた。

「囲んで、攻めよ!一人も逃すでないぞ」

「おぅー!」

 

 此の様子を邸の中から見ていた宗薫の子宗呑そうどんは、どうしたら良いか考えた。明らかにこちらが不利である。

「半左衛門殿、邸に火をかけまするゆえ、その隙にお逃げなされませ。火を見れば敵も怯みまする。その隙に逃れませ」

「あい、わかった。ものども、我に続け!」

 半左衛門は部下にも手伝わせて、何箇所かに火をつけた。当然、敵は火をつけ火勢のついた所から攻めよせることはできない。

「太郎介!行くぞっ」

「南無阿弥陀仏じゃ。半左衛門殿生きて逢おうぞ」

「もとより承知」

 

「火をかけたぞッ!」

「敵を逃すでないぞ!囲い込めぃ」

 邸から出てきた半左衛門らの軍勢はひと塊りとなって脱出して町から脱出しようと走ったが、通路に設けられていた木戸が閉じられており、退路を塞いでいたのである。次々と片桐の軍勢は討たれていった。半左衛門と太郎介は武芸に優れていたので、そう簡単にはやられなかったが、時間の経過とともに力が尽きており、新手を繰り出してくる大坂方に押されていった。

「太郎介!もはやこれまでぞ。そなたは茨木に立ち返り、殿に報せよ」

「半左衛門殿、それがしも残りまする」

「何を申すか。死に急ぐでない!殿に某の最期を報せよ」

「ならば、御免つかまつる」

 と、富田太郎介は茨木城目指して退いていった。残った多羅尾半左衛門は仁王立ちとなり、大坂方の攻撃を一身に受けた。半左衛門は数人を返り討ちにしたが、最後は飯田順兵衛に討たれた。

 宗呑は捕縛され、父宗薫ともども大坂に護送された。当然、残された今井家の財貨は没収された。


 一方、多羅尾半左衛門らを堺に送ったが、その後の宗薫の報せにより、その送り出した兵力があまりにも少なかったため、身を案じた且元はさらに援軍を送る手筈を整えた。


 牧治右衛門、日比野加左衛門、河島五兵衛らに兵百余名をつけて、堺に多羅尾らの救援に向かわせた。牧らは陸路は大坂方の監視があるので、尼崎より海路堺に向かおうとしたのだが、尼崎は関東方の支配下にあり、城主建部三十郎は池田利隆の援軍もえて、尼崎城を守備していた。そこへ牧らがやってきて、船を拝借したいと願い出たのである。建部は片桐の配下の者が、海路堺へ行くのも不審に思った。ましてや先日まで大坂方の者であり、疑うこと然りであった。


「所司代に尋ねたのちに船を貸し申すので、しばらく待たれよ」

 というので、しばらく待つことにしたが、翌日になっても埒が明かないので、茨木に帰ることにしたが、海路で行く予定であったので、馬などは茨木に帰してしまっており、徒歩での帰路となった。これを大坂方の物見が発見したのである。

「片桐市正殿の軍勢が茨木に向かっておりますが、全員徒歩でございます」

 大野治長は市正への鬱憤が晴らせる時が来たと思った。

「権右衛門!直ちにいで立ち市正が軍勢蹴散らせて参れ」

「はっ!市正め懲らしめる良い機会でござる。すぐさま手勢を率い懲らしめて参ります」

 米村権右衛門は騎馬35騎と足軽400余を率いて急いだ。

「あれに見ゆるは、市正の軍勢ぞ!蹴散らせ!」

「おぅー!」

 慌てふためいたのは、片桐の軍勢である。馬がなくては暴れ回れぬ。

「治右衛門殿!ここは我らが防ぎまするゆえ、茨木に戻り候へ」

「そうはゆかぬ。おめおめ帰っては殿に顔向けできぬ。共に戦い、一緒に帰るのだ!」

 治右衛門らは倍以上の敵に囲まれ、奮戦虚しく、治右衛門、加左衛門、五兵衛ら悉く討たれ、結局士分の輩二十七、雑兵五十九人を討ち取られ、惨敗を期して、残りは逃散するかし、大坂方の勝利に終わった。此の戦い、堺と並び最初の野戦となったが、内容は片桐方と大坂方との戦いであり、関東方としては痛くも痒くもない戦いとなった。大野治長としては溜飲が下がる戦いとなった。


 且元としては、尼崎の城兵の無情の処置により、此のような状況を現出したことに憤りを覚え、板倉勝重に訴えた。それを聞いた家康は当初怒りの余り事の究明せしめたが、城主建部と援軍池田の念を入れたる対応に感嘆し、その罪を問わなかったと言われる。


 さて、堺はというと、住民らは大坂方の狼藉により荒廃しており、早く大坂方を排除してほしいと訴えていた。これにより、家康も堺は重要な拠点でもあり、藤堂高虎に命じて河内を確保することを命じ、高虎は陣を住吉にまで移して堺に圧力をかけた。槙島らは関東勢が河内国内に入ってきたことを受け、大坂城内に戻ってしまった。残った守備兵も少なく、物見が高虎の軍勢が迫ってきていることを報告し、大軍相手にどうすることもできず、大坂城に戻ってしまい、堺は解放されることになった。こうして、以後、堺は尼崎と共に関東勢の兵站基地として機能することになった。大坂方の堺の占拠は束の間の事であった。

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