第12話 明石全登

 明石全登、全登は法号であり“ぜんとう”と読む説があるが、“たけのり”と読む説が通っており、別の読み方もある。通称は掃部助全登から“掃部”と呼ぶ。

 

 全登の父明石飛騨守景親(景親は通称で本名は行雄ゆきかつと呼ぶ)ははじめ浦上宗景に属して、備前児島郡にて保木城を預かっていたが、宗景滅亡ののち、宇喜多直家に帰属した。そして功績により四万石の知行を賜り、宇喜多家の中心人物となった。


 掃部助全登は嫡子として家督を継、和気郡の大股城にて中納言秀家に仕えていた。慶長4年にお家騒動が発生し、全登が宇喜多家の家老となった。


 関ケ原では、小早川隊と共に最大兵力を以て主力として戦闘に及んだが、小早川隊の寝返りにより敗退し、全登は秀家を逃したあと、自らも脱出して無事逃避に成功し、京都から大阪に向かったが、岡山城を敵手に渡すまいと、海路岡山に向かったが、城兵らは四散して空になっており、城内は略奪にあって無残な状態であった。


 全登は止むを得ず家族を引き連れ、備中の足守に潜伏、その後、全登が切支丹だった関係上、黒田孝高の庇護を受け、筑前領内に身を潜めた。また、全登と孝高の関係は切支丹の繋がりだけでなく、孝高の生母は、小寺政職の養女だが、実は明石備前守正風の娘であったから、縁戚関係でもあった。しかし、黒田長政は、家康のご機嫌を損じてはと苦慮し、全登に領外退去を命じていた。孝高が激昂したのも当然であるが、孝高自身も切支丹を改宗せざるを得ない事態でもあり、諦めざるを得なかった。


 全登の洗礼名はヨハネ(ジュアニー)とつけられていた。全登は敬虔な信者であり、高山右近とともに、改宗する意思などもっていなかった。そこが、他の切支丹武将との差であった。他の利害があって信者になっていたのとは訳が違っていた。


 全登は、庇護を受けたことを感謝しつつ筑前の地を後にした。そして秀頼が大阪にある切支丹は追放せず保護していることを聞きつけ、大阪へと向かった。


 切支丹大名は、関ヶ原において東西どちらの陣営についたのであろうか。今一度見てみると、西軍の陣営には、岐阜城主織田秀信、宇土城主小西行長、福知山城主小野木縫殿ぬいどの、久留米城主毛利秀包ひでかね、山下城主筑紫広門ひろかど、対馬宗義智、徳島城主蜂須賀家政、佐伯城主毛利高政、府内城主大友義統よしむねがおり、東軍の陣営には、大津城主京極高次、高遠城主京極高知、上野城主筒井定次、中津城主黒田長政及び父孝高、宇都宮城主蒲生秀行、田辺城主細川忠隆、峰山城主細川興元、弘前城主津軽為信、唐津城主寺沢広高、飫肥おび城主伊東祐岳すけたからがいた。つまり、宗教教義から分裂したのではないのである。


 だが、家康としては、やはり宗教勢力の力が結束すると、大きな力を要することは、信長、秀吉の戦略の経験から、大きな脅威を感じていたことは事実であろう。天下に徳川の法が浸透しつつあるのに、大阪だけは秀頼の統治の勢力が強く、治外法権的な地域になっていたことに今後徳川政権にとっての鍵になることは読めた。其のために、切支丹追放の処断が、関ヶ原敗戦とともに、切支丹の主導者として存在する高山右近と閉居している明石全登が、多数の切支丹門徒と共に、大阪に集まり秀頼に協力することこそが一番の脅威なのである


 切支丹弾圧とともに発生する秀頼との確執の差が拡大していくことも今後の徳川政権を安定させて行くには、邪魔であることには違いないのである。どうかしなくてはならなかった。其のためには高山右近と明石全登を排除することが先決であった。右近は加賀前田家の預かり身分であり、国外追放処分は簡単にできたが、明石全登はそう簡単に行きそうではなかった。なんとか、秀頼に味方しないようにしなければならないが、其の手段が取れないまま、結局秀頼の召喚により、切支丹門徒でもある家臣らを率いて、大坂城に入ることになるのである。


 ここで、当時の切支丹大名について考察して見たいと思う。明石全登のことを書いていると、なぜか切支丹の歴史を知らないと、曖昧なままで大坂役の戦いを書くのではと思ったからで、なぜか今ひとつ奥深いものに欠ける気がした。そして、突然に切支丹のことを書き足したいと思ったからである。時は秀吉の代に遡る。

 まずは、この当時の宣教師のあり方について、姉崎正治博士が著書の中でこう説明しているので紹介しよう。

「ゼスス会(筆者注 Jesu,イエズス会)の目的は自己を正し、人を救い、異端を征伐するにあり。進んで異教徒を感化しようとする伝道事業にまで及んだ。自ら正しゅうする為には、精神鍛錬の修行を積み、特に意志の鍛錬に努め、艱難に堪える為には断食鞭韃等の苦行を行う。その組織は軍隊的であって、キリシトが自ら神国の将として、悪魔と戦うその旗下に馳せ参ずる心を以て、会の長即ちゼネラルに服従し、修養進退皆軍隊的に行う。その国に加入する者は修練の入門を経、少くとも数年に亘る訓練の修行を積んで後、初めて一人前の兵士となる訳で、前後十二年位を要する。一人前の兵士即ち兄弟(ポルトガル語でイルマン)となるには、服従、清貧、貞潔の三つの誓いを立て、その上に又伝道に従事するには第四の誓を立てる。第四と云うのも、つまり服従の充実であるが、身命を捧げて伝道に従事し、教皇の命一つでどこにでも出かけるという誓で、献身の誓と名くべきものである。イルマンとして尚学問を完成し、志操堅固である者は霊父即ちパアテル(Pateru、日本ではパアテルといい、それが長じてバテレンとなった)になる。ゼスス会では、イルマンになるのでさえ、修行試練が厳重で、容易ではなかった為に、日本人で教師格になる者が少く、伝道の末期には、日本人信徒で他の団体に転じて、イルマン、又はパアデレの職についた者もあった。とにかく修行十数年の鍛錬を経、不惜身命の意気で軍隊的進退を以て伝道に従事する戦士の団体であるから、その行動の強烈であったのは自然の勢で、その進撃が日本に及んできたのは、団体成立後十年、方に新鮮の英気溌剌たる時であった」(『切支丹伝道の興廃』1930)という。


 信長も秀吉も基督教の布教には、寛大な処置をとり、南蛮貿易の経済的効果も認めて、基督教の布教を許していたが、当然そこには、仏僧との衝突が起こるのは当然のことであった。秀吉も豊臣姓を受け、天下統一に向けて動き出すと、ブレーンとして存在する仏僧からの教授を賜ることになる。それが、基督教の排斥、つまり切支丹の排斥である。


 秀吉は九州征伐後、イエズス会のコエリヨに会い、基督教を保護する方針を伝えたが、数日後態度は一変する。切支丹追放令を出したのである。


 この詳細はのちに詳述するが、切支丹排斥の始まりであった。そして、切支丹大名への基督教棄教まで発展し、その犠牲者の一人が高山右近だ。他の大名は改宗したけれど、右近だけは改宗に応ぜず、結局大名として所領扶持を捨てて、浪々の身となり、のちに加賀前田家にて捨て扶持にて暮らすこととなるが、家康が発布した切支丹国外追放令により、マニラに送られ、そのおよそ一ヶ月後には没してしまった。もし、大坂の役の招集に右近が間に合っていれば、もっと多くの切支丹が大坂城に入ったのではないかと思われ、明石全登もそれを期待していたと思われる。右近が大坂城に入れば、全登も心強かったであろうし、右近の武将としての力量もあったので、それなりの切支丹部隊の活躍が後世に語りつがれたかもしれない。

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