第10話 後藤基次⑵

 主君黒田長政と又兵衛の間柄はどこから悪化しはじめたのであろうか。主従関係であることは間違いないが、であるかこそ、又兵衛もわきまえていたことは武士の習いとして当然のことであるし、また長政も又兵衛の武士としての心構えや力量を認めていたことも確かだ。孝高もそれを見越して又兵衛を置いていたのであろうし、黒田家中の柱の中の一人として認めていた。中西豪氏は著書の中で「主戦場における黒田家臣団の、そして長政の家臣の筆頭は又兵衛であったのである」(歴史群像2007年12月号「後藤又兵衛一代記」)と述べている。


 だが、不和もあったのではないかと逸話から察する事もできる。それは嘉山の戦いにおいて、敵は大河を渡り、黒田・小西の両陣営を襲撃してきた時のことである。


 長政自身も槍を振るい奮戦することとなり、川の中で李応理という敵将と組み打ちとなり、相まって水中に落ちた。長政の着する水牛の兜の前立て、両端のみが僅かに水面に見え隠れするほどで、これを見ていた小西隊の一将が、丁度又兵衛が敵を追い払い一息ついていたところだったので、慌てて又兵衛に近寄り、


「又兵衛殿、あれを御覧ぜよ。貴殿のご主人が敵と組み打ちなされ、水中に相うたれてござる。早くお助けなされぬか」


 と喚起したが、又兵衛は日の丸の扇を仰ぎつつ


「何の何の、拙者の主人は朝鮮人に負ける大将ではござらぬ。心配は無用」


 と笑いを浮かべつつ其の様子を見ていた。


 そのうちに、血が水面に浮き上がり赤く染まってきた。その様子を見ていた渡辺平吉という者が川へ飛びこみ、長政を引き起こしに行ったところ、長政は敵を刺し殺して立ち上がろうとしていた。長政にとっても重い甲冑と水中での格闘は流石に苦闘であったのだろうか、激しい息遣いをしていた。長政は眺めている又兵衛を見て、(あやつはなぜ助けに来ぬのか)と思ったのであろう。自分を本当に助けてくれる人物なのか不安が心の隅に宿った瞬間であった。

 

 長政の父孝高は如水軒と号して家督は長政に譲ったものの、その策士としての力量は天下に名をまだ示しており、関ヶ原の折も九州でその役割を果たしていた。長政は関ヶ原の功績により筑前52万3千石に封ぜられ、任地に赴く途中にて中津に立ち寄り、父に拝謁した。


「父上、この度私手を尽くして治部少の軍を破りましたのを、内府公におかれては深くご感賞なされ、私の手を親しく握られ、三度まで押し戴かせられてございます」


 このように家康から直接感謝の意を手をとって述べられることは賞賛に値する出来事であり、父孝高にその模様を伝えたかったのであろうが、孝高にとってはそれが不甲斐ないことにも思えた。


「ほぅー、で、それは右の手であったか、左の手であったか」


 と孝高は尋ねた。


「右の手でございまする」

 と嬉しそうな表情で右手を上にあげながら言った。

「ならば、その際左手はどうしておったか」


 長政は返答に困り、黙っていた。そして、そのまましずしずと立ち去っていった。そして、廊下に出ると、硬直した表情ですごすごと足早に邸を出た。


(長政よ、もっと志を大きく持たねばならぬぞ。)

と孝高は険しき表情のまましばらくその場に座していた。


 又兵衛の黒田家における存在はやはり輝くものだった。長政にとってはそれが段々と煩わしいものにもなっていったのは事実だ。関ヶ原の戦いが終わっといえ、まだ天下の行方は決まっていなかったから、それが長政にとっても今後の行く末を案じることだった。ある時、重臣などとその話に及んだ。


「天下の変は何時起こるかも推し測ることはできぬ。その場合にじゃ、もしわしが病あって采配をとることができぬ時、自分に代わって、当家の軍配を統率するべき者は誰であろうか」

 と長政は尋ねた。


 菅和泉正利が間髪を入れずに進みでて述べた。


「恐れながら申し上げる。ご当家は武辺の御成たちにおわせば、諸老臣何れのお方も相当に人数を扱いましょう。さりながら、殿のご名代となり、全軍を統率しお家の武を堕さぬ者は、誰が何と申しても、後藤又兵衛をおいて他にはござりませぬ。些細なことではござりまするが、先年朝鮮御陣の際、猛虎御厩に踊りいり、乗馬を噛み倒しまする故に、此の和泉立ち向かい一刀を加えますれど、なかなか獰猛にして手にあまり、困難な状況となり誰一人として出合う者おりませぬ。そこを駆けつけ一刀にて斬り捨てましたのは、又兵衛にござります。武辺において、先ず彼が第一と覚えまする」

「そうじゃ、又兵衛しかおらぬであろうな」


 他の老臣からも肯定する返事がすると、長政は明らかな不興な表情を見せ、座を立って引き込んでしまった。

(又兵衛しかおらぬのか)

 豪の者に対する嫉妬心が潜んでいた。


 とは、いっても父孝高の存在が二人の仲違いの歯止めになっていたが、孝高が慶長9年3月に世を去ると、石垣が崩れるように、長政と又兵衛の間は嫌悪を生じるようになった。又兵衛に対し他家の諸将も、書簡を交わしていたが、それも長政にとっては面白くなかった。それを察してか、又兵衛は所領の小隈城に引き籠った日々を送っていた。


 又兵衛の突然の不和を生じる出来事が発生した。もともと長政から次男左門基則を扈従に差し遣わすようにと言葉のままに差し出していた。左門は儀礼正しく、小鼓の技も備えておったから、長政に可愛いがられていたが、又兵衛との反目の反動から左門へも冷たく当たるようになった。


 ある時長政は、金剛大夫を召して能楽を催されることになり、その節の小鼓役に左門を命ぜられたのである。左門は、能楽に際してその役務につくのは本意ではない。


「此の儀は御免くだされたい」

 と申し出たが、長政は

「隠岐が強情は承知しおるが、そなたまで我を張るか、辞退は許さぬ。鼓を打て!」


 と申しつけたので、もはや拒絶することできず、役目を終えると、城に帰り父に訴えた。


「父上、私は大夫の遊興につきあうための小鼓をやりたくありませなんだ。殿の強引さを断ることもできず、我ながら我慢の限界を超えました」

 泣きながら、左門は父に訴えた。


「なんと!いかに主従の間とはいえ、一城を預かる者の子を捕まえ、猿楽の徒輩に伍せられるは、武門の恥辱此の上やあるか。武士たる者己を知る者の為に死す。己を知らざる主人に従うことはない」


 と、又兵衛は暇願いを即刻書き上げ、長政に届け出た。しかし、長政とて又兵衛ほどの英傑を他家に行かせるわけには行かぬ。「許さぬ」「許せ」の双方の意地の張り合いとなった。

 

 細川忠興は関ヶ原の功績により丹後12万石より豊前中津36万石に封ぜられ、新しく小倉の地を拠点と決めていた。その忠興は茶人であり武人であり教養高く、又兵衛とも親しく書簡を交わしていた。


 又兵衛は長政とのこれ以上の問答は無用と思い、忠興に庇護を求めたのである。そして、忠興は、又兵衛ほどの英傑を家臣として迎え入れれるのであればと、快く承諾したので、又兵衛は、1万6千石の扶持を捨て、一族郎等を引き連れて城を立ち退き、小倉へと向かった。慶長11年春のことである。


 忠興はいざという事に備えて、銃手300に、騎馬、槍隊数百を加えて、途中にて又兵衛一行を迎えさせた。忠興は当座の合力米として5千石を給し、客分扱いの待遇を以て迎え入れた。


 当然、又兵衛出奔の話は長政の元へ届いた。怒りを覚えたのは当然である。


「さてさて、隠岐め!自分を見限り立ち退いたとは、許せぬ所業じゃ。憎さも憎し。此の上はその尻を衝いて、仕官の途を塞いでくれよう」

 と書状を書き留め、使者を小倉に遣わした。

「殿、筑前守より火球の書状が届いてございます」

「何じゃ」


 忠興は長政よりの書状を開けて読んだ。

『隠岐の事当家の不都合があって、立ち退いた者でござれば、早々にご放逐下されたい』

と書いてあった。

「ふん」

と、忠興はあざ笑った。

「使者はまだおるか」

「はっ」

「すぐ返書を認めるゆえ待たせて持たせよ」

「はっ」

 忠興はスルスルと返書を認め、黒田家の使者に持たせた。


 長政はその返書を開けて読んだ。


『筑前守殿、決して召抱えたるわけではござらぬ。ただその境遇を気の毒に思い、しばし客分にてご逗留いただくまでにござれば、お構いくださるな』


 とあった。長政は越中守も我を愚弄いたすか、ますます許せぬ。さらに長政は忠興に書状を送りつけた。


『内実はともかくも、世間に於いては隠岐は貴藩にお召抱えにあったと風説している上は、某としても一分が相立ち申しませぬ。是非にご放逐あれ』


 これに対し、忠興は

『世上の風聞はどうであろうとも、召抱えておらぬ者を、いかで放逐できようか』

 と返した。


 もう両家の間は、力づくでいくしかあるまいと紛争状態になりそうであった。家康・家忠が此の事を聞き、駿府から山口主水、江戸から赤井五郎作を差し下して、又兵衛は幕府にて預かり置くという裁定により、両家も和解になった。忠興としても幕府の命には従わない訳にはいかず、路銀を渡して界外に送ることとなったが、忠興としては別れを惜しみ、又兵衛を数奇屋に招き、茶を点じ、心を尽くして饗した。席には細川家中でも豪の者として名高い松井佐渡、有吉頼母が相伴していた。

 談話が世間話しから、戦闘に関する事に及び話しは黒田家にも及んだ。

 


 忠興は尋ねた。


「我ら筑前守とは日頃より不和であるところに、此のたびの件が加われば、今後両家の関係は如何になり申すものか測り難きもの。御身の見られた筑前守の軍立をよくよく承り起きたいものでござる」

 又兵衛はこれを聞いて、元主人に対する遠慮もなく答えた。

「戦は敵を知り己を知ることが最善と申す。もし両家が不如意となり戦いを開かれることと相ならば、提封の大小、軍旗の多寡から積もりても御当家に勝算はござらぬ」

 とキッパリと言い切った。


 これには、同伴していた佐渡、頼母が唖然とした。そして、佐渡が問うた。

「それは左様かも存ぜねど、それは戦闘の駆け引きにて勝算は変わるもの。それに対する御方略を是非に承りとう存ずる」

 又兵衛は佐渡の方をちらりと見てから言った。

「それはござる。御当家の深き御情に対し、たやすく勝つべき計略を御授け申しあげよう」


「ご拝聴つかまつる」

 佐渡が答えた。


「筑前守はご承知の如く、人に勝れたる勇将に候へば、毎戦必ずや先頭に立って進まれる。万一黒田家と御矛盾の場合がおはさば、鳥銃の名手四、五十人を選び一隊とし、両軍相接し槍合わせの頃合いを図り、敵中の先頭の騎馬武者四、五人を撃ちとられなば、その中の一人は必ず筑前守でござろう」

「うーむ」

 佐渡と頼母は流石だと感嘆の音を立てた。


 忠興は又兵衛を見送った後、佐渡と頼母に言った。

「流石は又兵衛じゃ。戦にかけては巧者なもの。のう佐渡、頼母」

「御意にございます」

「それにしても又兵衛、主君長政を恨みて出奔しながら、なお長政の武勇を賞賛いたすところが奥ゆかしいものよ」

「左様にございますな。彼ほどのお方が当家に居れば、今後戦になっても迷うところもありますまいが、残念至極にございます」

「まさに・・」


 この先後藤又兵衛一族の放浪の始まりとなろうとは、又兵衛自身も思いもよらなかったであろう。

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