第8話 毛利勝永
大坂の役において、秀頼に味方して籠城に加わる元大名または子息は、真田幸村(信濃上田、真田昌幸次男)、長宗我部盛親(土佐浦戸)、仙石秀範(仙石久秀次男)、毛利勝永(豊前小倉、毛利勝信の子)など幾人もいない。その中で、記録として活躍した武将は幸村、盛親、勝永である。勝永の武名は大坂にて大いに上がったと言っても良いであろう。
勝永の武功は、朝鮮出兵時にあるであろうが、記録として功績がないので、どれほどのものか分からない。関ヶ原でも結局は、伏見城攻めでの勲功は讃えられているが、本戦では恵瓊の指揮下にあったが戦うことなく、戦線から離脱している。
勝永の父壱岐守勝信は、尾張の人であり、元々は森と名乗っていた。秀吉の若年より随って各地を転戦し、毛利氏との対抗、中国大返し、山崎、賤ケ岳と殊勲を立てて、九州閉廷後に豊前小倉六万石に封ぜられた。その後に森姓であったのを、秀吉が毛利姓に改めるように命じて、毛利姓を名乗るようになった。毛利壱岐守として、九州の奉行も兼ねていた。その勝信の長男として生まれたのが、勝永であった。元服後、任官して豊前守と称し、秀吉没後も秀頼に仕え、関ヶ原を迎えたのであった。が、虚しく敗戦となり、勝信は剃髪して一斎と号した。家康の処罰は領地没収であり、本来ならば死罪であったが、如水と山内一豊のとりなしで、父は清正に預けとなり、その後父子共々、一豊の預かりとなった。勝永23歳の時と思われる。
一豊は父子が謹慎している建仁寺を訪ねた。
「壱岐殿、豊前殿、我が新領地土佐にてゆるりとされるがよろしかろう。土佐は暖かい。京に比べれば雲泥の差じゃ。冬など特に土佐では寒いと思う日はほとんどない。父子の豊臣に対する忠義尤もじゃ。某など故あって内府にお味方することになり申したが、秀頼公も大切なお方。また、壱岐殿とは若年より戦場を共にし、気心がよくわかっており申す」
壱岐守勝信は言った。
「某はもう老体の身。暖かい土佐の地で余生が暮らせられれば、これほどありがたいことはござらぬ。対馬殿のご厚意感じ入ってござる」
一豊の父盛豊は、織田信長の岩倉攻めの際に討死しており、三男だった一豊は諸将の間を渡り歩き、最後は秀吉の家臣となった。初陣は姉川の合戦であった。勝信が家臣となったのは、その後と思われるが、一豊とは手柄を争う仲になっていた。
「父子のご活躍を思えば、浪々の身は忍び難し。ましてや豊前殿には大阪にて質となっていた妻千代を護りいただいたと聞き及びまして、この時の恩を決して忘れてはならぬと肝に銘じられて居ります故、某恩を返す所存にて、千石の扶持を給したいと思って居ります。是非ともに土佐に参られよ」
勝永が言った。
「父と対馬守殿とは旧知の仲、大阪の質となっても、旧知の妻女でござれば、護るのは当然の理。これを致さなば、武士の魂などござりませぬ」
「よう言うた。豊前。我らと対馬守殿とは切っても切れぬ仲でござる。豊前ともどもお世話になり申そう。そなたの恩義終生忘れぬ」
「何を言わるるか。壱岐殿とはお互いに功を争うた仲、遠慮はいらぬ。また、内府のお怒りも静まれば、豊前殿も我が側近にすることもできよう」
「それは真にありがたきこと。対馬守殿、礼を申す」
「いやいや、礼には及びませぬ。こは太閤殿下の縁にてのことでござれば、当然の理でござる。土佐での屋敷の都合が整えば、使いを寄越す故、それまで出立の準備をなされて待つが良いであろう」
「かたじけなく存ずる」
土佐での父子の準備が整うと、毛利父子は、数人の従僕する家人とともに、土佐に向かった。勝信は大高坂西廓尾戸に居住し
勝永を世話する家臣に杉助左衛門がおり、もう一人窪田甚三郎がいた。勝永はまだ若く秀頼公が健在である以上、まだ豊臣の政権継続はあるだろうと思っていた。其の際には、この身は釈放されて、まだ大阪に戻れるかも知れぬと思っていた。だが、そんな矢先、家康が征夷大将軍の宣旨を受けたことを山内家から聞き漏れてきた。京にいる旧臣からもそんな文が届いたので、聞いたことは真実とわかった。
勝永は城の一角に住む父勝信にしばらくぶりに会った。
「父上、家康が征夷大将軍の宣旨を受けたと聞き及びました」
「わしも聞いておる。大変なことじゃて」
「征夷大将軍の宣旨を受けたとあらば、政権は徳川のものを天下に表明したことになります。秀頼公を後見して、成人した暁には、秀頼公を将軍と仰ぐことを夢見て参りました我らは、家康の裏切り行為により断たれたことを肝に銘じなければなりませぬ」
「豊前、滅多に其のようなことを声を荒げて言うでない。誰が聞いておるかわからぬ。ましては我らはお預けの身、山内家に迷惑が及べば、放免されるであろう」
「かようなこと起こらば、放免なさるるがこちらとしても望むところ。直ちに大阪に参上致しまする」
「左様なことをすれば、家康はすぐにでも秀頼公を亡き者にするであろう。今は滅多に動くものではない。まして、家康は秀頼の命を奪おうなどと思うておらぬはず」
「しかし・・・」
気持ちの高揚を抑えきれない勝永は、屋敷に帰ると窪田甚三郎を呼び寄せた。
「甚三郎、この頃茶に興味を持っておる。茶といえば、京が本場のこと。茶器など見てきてくれぬか」
「はっ、茶器ですか」
「左様じゃ」
はじめ若殿は変なことを言うな。茶など全くやらぬのにと思ったが、何やら上方での探りを入れるために遣わすのだと合点していた。
「わかりました」
「そういえば、其の方の従兄弟は大野修理太夫であったな」
「はい、大野治長殿でござる」
「息災にしておるか、京に出向いたついでに逢うてくるがよい」
それ来たと甚三郎は思った。
「ありがたきこと。お言葉に甘えて修理太夫殿に挨拶をしてから帰参いたします」
「うむ。其の節にこの書状を渡してくれ」
「かしこまりましてございます」
甚三郎は、仕度を整え京を目指した。そして、帰りに大野治長に久しぶりに会って久万に帰ってきた。治長に勝永がどのような内容の書状を渡したかは不明だったが、治長は久しぶりの再会を喜んでいた。又、山内家での勝永の暮らしぶりについて聞き及び、秀頼公からだと少し金子を与えてくれたのだった。
勝永の正妻龍造寺家の娘御は、しばらくして没したらしい。その時節は記録にないので不明であるが、土佐で新たに内室をもらい、大阪に走るまでに男子二人、女子一人が誕生していた。勝永にとってはまだ安穏とした日々を過ごしていた。だが、心は遠く大阪を向いていた。それは何年かするとはっきりと秀頼公に対する締め付けがおきていると聞かされてから、さらに大きくなっていった。運命の歯車がここでも回り出そうとしていた。
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