第7話 真田幸村⑶
昌幸はしばらくの間、落ち込んだようだった。夢は再び信州に返り咲き、領地回復に向けて邁進するのみと思いをずっと巡らせていたから当然であった。こんなことなら、開城せずに、もう一泡吹かせてから上田城とともに果てた方が、どれだけ満足の行くものだったのか、それが今となって不甲斐なく思えていた。
九度山に移って数年も経過すると、徳川の監視の目もゆるくなってきた。時々徳川の探索方が姿を表すが、何事もないのを確認するとすぐに帰ってしまう。浅野家の監視のものは近くに常駐はしているが、今は交流さえあるくらいだ。浅野家を通じて、和歌山城下への出入りは許可する通知ももたらされた。それは、浅野公が昌幸との交流を望んでいたからだ。大名がわざわざ九度山近辺まで往来することは、幕府の目になんと映るかわからないが、昌幸が散策の傍ら和歌山を訪ねて、どこかで密かに会うことはできる。
三年ほどにもなると警戒は和らぎ和歌山の城下への往来も黙認されるようになった。昌幸は池田長門、原出羽、海野六郎などを連れて、浅野家の懇意にしている棚次郎左衛門宅に赴き、囲碁などをして楽しむこともあった。海野六郎は、昌幸が長門、出羽で十分というのを、腕の立つものにして是非にと同行を懇願したのである。海野氏は侍大将の家柄の子であったが、若年にして槍の使い手として幸村が密かに同行させていたものだった。
幸長も次郎左衛門からの連絡を受け、暗くなるのを待って、隠密裏に左衛門宅まで出向いて、酒を酌み交わしながら昔話に夜更けまで話したこともあった。
「房州殿」
「いやいや紀州殿、もはや安房ではない。出家して
「左様でございますな。干雪殿、夢と思えば怪しうもなかろうが、ここ数年の転変は夢ならぬ夢が起きておる。備前中納言や治部少はあの様になり、おことまでが世捨人。一昨年の夏には会津中納言は米沢へ、昨年は兵部少(井伊直政)や徳善(前田玄以)が鬼籍に入った。そして、今年の春には内府公が右府に昇られ征夷大将軍となり、二条城の賑わいは太閤の世の大阪のようになっておる」
「内府も征夷大将軍となったか。もう天下人も当然の振る舞いよのう。紀州殿もそのように夢のようなことと言われるか。同じ夢でも我らの夢は儚い夢じゃ。そうじゃ。大阪におわす秀頼公は息災でござろうか」
「先の4月のことじゃ。秀頼公は内大臣に昇られ、7月には江戸大納言の姫君を嫁として迎え申すが、秀頼公はまだ幼くおはしますが、さすがは太閤のお子、また片桐
「うむ、太閤殿下がまだ在世しておらば、いかばかりか御喜びになろうが」
干雪は横を向いて、ため息を少々ついていた。
「だが、いいことばかりではない。おことはまだ知るまいが、かって太閤殿下宿願であった大仏を鋳せらるることになったまでは良いが、師走はじめに火が移って大仏殿ともども灰塵にきしてしもうた。秀頼公と淀殿の落胆はいかばかりか」
「それも夢物語とも言えましょうぞ」
「秀頼公は神社仏閣の造営復興に力を注いでおいでじゃ。戦など縁のないお方かも知れぬのう。わしも含め豊臣恩顧の大名は力を貸そうと思うても、右府の目があるうちはそうはいかぬ。せめて命を守ることしかできぬ。肥後殿も必死に守っておるが、それがせめてもの太閤殿下への恩返しにござる」
「紀州殿、秀頼公は右府に弓引くことこの先ござろうか」
「それはわかりませぬ。また、万一、秀頼公が旗揚げされ申しても、どれだけの豊臣恩顧の大名らが与力しましょうや。我らが注進できるのは、我慢なされませとしか言えぬ」
「左様か。もうこの老体には失うものは何もない。いざあるときはお助けできように」
「干雪殿は頼もしい限りでござるな。秀頼公がお聴きになれば、たいそうお喜びになろうて」
昌幸は、大阪城にあって徳川の大軍を迎え撃つ手立てを巡らせていた。
一方、幸村はあまり遠くには出ずにいた。散策するにしても、釣りに行くことぐらいであった。ある時には、屋内にて何やら作業に没頭している姿が伺えた。昌幸が囲碁の相手として幸村を所望しているとして、池田長門と原出羽が呼びに来ていたのだった。
何をしているのか、二人は不思議に思い聞いた。幸村は木綿糸で打紐を作り、試しに正宗の刀の柄にそれを巻いて、握り具合を確かめていたようだった。
「
「おう、長門と出羽か。まあ、これを見よ」
幸村は、打紐を巻いた正宗を高く差し出した。
「おうー、よくできておりますな」
「どうじゃ、良い工夫であろう」
幸村は出来栄えを見て誇らしげな表情であった。長門は太刀柄を握って、その感触を確かめていた。
「うーむ。これは見事でございますな。至極の工夫でございます。拙者も特に気に入り申しました。使い余りの紐などありましたら、我らにも賜りとう存ずるが」
「うん、まだここに四、五尺ばかりの残りがある。これをそちに遣わそう」
「おお、それはありがたき仕合せ。遠慮のう拝領いたしますが、組み方は如何すれば良いので」
「そう難しいものではない。やり方を見ているがいい。ここをこうして・・と」
「なるほど、拙者にもできそうでございますな」
「これを五色の糸で組み上がれば、見栄えも華やかになろう。それを高野同者によって売り広めたれば、何人かの生業になろうと思うがどうじゃ」
「好白殿、まさか武士に町人の真似事などできるものではございません」
「何を言うか。我ら武士を捨てたも同然。しからば町人と同じじゃ。食うに困れば、何かの手立てを考えねばならぬ」
「しかし・・・」
長門と出羽は次の言葉が出なかった。二人は幸村を呼びに行ったのも忘れて陽がかなり傾いて、長い影を落としながら帰っていった。
これが真田紐の誕生秘話であるが、もともと上田地方は織物の発達する生地があったようで、江戸時代には上田縞なる織物が盛んになっていることからして、幸村も織物を見聞しており、そこから組紐の技法をみよう見真似でとり入れて、武具に応用したのかも知れない。
それにしても、真田父子の生活は困苦を極めていたようだ。浅野家から年々五十石支給されており、兄真之からも金子などが届いていたようだが、楽ではなかった。昌幸と幸村の妻と子供たち、そして16人の家臣、それだけではなく下僕の者もいたし、密かに跡を追って来た者もいた。総勢は50人から80人はいたと思われるが、正確な人数はわからない。五十石といえば、普通大人一人が年間に食する量が一石なので、50人は最低限養えると思われるが、其の扶養人数を超えていたから、一石=10斗=100升=1000合になる。1日3合として1000÷3=333.3日 となるから、結構な人数がいたと想像するしかないのである。升はこのころには統一されていたので、現状の計量と変わらない。また、金にするには、米を売って金にするしかない。それは相場性であるので、比率が変われば、やりくりの困るのは、現在でも同じである。
金策にあたって、昌幸や幸村は金を要求する文書が多く残っている。
追て珍らしからず候へども、はりの盃一つ、
三月廿五日 安房昌幸
昌幸が青木半左衛門を信之のところへ此の書状を持たせて遣わしたのであり、一両年癪に苦しみ、根気もなくなってきたことを嘆くと同時に、珍しくはないが、
このように真田父子の九度山の生活は貧窮に耐え忍んでいたのである。其の先に去来するものはなんであったのか、豊臣の奮起の時こそ、夢の時至るのではなかったろうか。
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