第6話 真田幸村⑵
昌幸の妻山手殿は高野山での生活は耐ええぬだろうと、信之が上田に留まることを進言したが、徳川家に対する憚りも考え、里方にあたる京の菊亭家を頼ることとした。
12月3日幸村とその妻女、そして家臣として池田長門、原出羽、高梨内記、小山田治右衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁右衛門、大瀬儀八、青柳清庵の16名が同行した。少ない臣従の姿であった。
池田長門は京伏見屋敷の留守居を務めていた者で京の地の利に明るいのと、真田家随一の奇襲の名人と言われた人物で、将来必要とされ同行を許された。高梨内記の娘うねめが幸村の側室となっており、その縁もあって同行し大坂の役にて戦死している。青柳清庵、青柳家は北信濃の村上義清の家臣で、信玄が川中島へ進出した際、真田幸隆により調略され、武田家臣となり、その後真田家臣に組み込まれたのだった。他にも同行したい者は数多いたが、最小の人選をしたのであった。
人選にもれ悲劇だった例もある。窪田正介なる者は、腕に自身もあり、是非にと願い出ていたが、昌幸は許してくれなかった。挙句には
「草履取りの代わりでも良いので、召し連れて参れば」
というのを昌幸は、
「そちの志は神妙なれど、武士たる者を草履取りで召し連れたと聞き及べば、内府はご不審を抱くであろう。さほど往くたくあらば、のちの始末をいたした上で、後日密かに参るがよかろう」
と言った。しかし、正介は
「しかしながら、万一にでも途中異変がおこりました節は、遅れてはその甲斐がございませぬ」
と、あくまで供をすることを願った。だが、昌幸は供を許さなかった。正介はもはや仕方なく、お役に立たぬのならと切腹して果ててしまった。
だが、遅れて追参する者が多く出た。望月重則、樋口四角兵衛、鳥羽木工、三井豊前ら十数人が、高野山へ入り、学文路宿や橋本宿に居を求め、真田父子を守護しようと隠れ住んだという。真田父子に対する臣従の深さが感じられる話である。
さらに、真田といえば、武田家から引き継いだ
テレビでお馴染みともいえる真田十勇士は、明治後期の立川文庫の「真田幸村」に登場した架空の勇者たちの活躍を描いたものである。二、三はモデルらしきものもないわけではないであろうが、架空には間違いない。でも、そんな人物がいたのではと思わせるものに真田父子と、山間部の真田郷にはそのような想像を含ませるものが存在する。しかも、修験者たちも多くいたことは事実であり、その環境下にあった土豪たちを家臣に組み入れてきたのもその架空に現実味を重ね合わせる。
この小説でも、少し脚色するのに、数人の人物を使用させていただく。
さて、信州上田から高野山は遠い。健脚の男子でさえ難渋の旅である。さらに幸村夫人は身籠もの旅であり、さらに「おいち」、「お梅」、「あぐり」の三女をともなっていたから、体調を考えて京北山に身を寄せることにし、そこで長男大助を産んだ。
12月一行は高野山に入り、
蓮華定院は、天正8年(1580)に信州や佐久の領主たちと宿坊契約を交わしており、昌幸も其の一人であった。其の縁があって蓮華定院を頼ったのである。高野山では諸国60余州と宿坊契約を結んでおり、その慣習は今も続いている。
しばらくして住まいとして落ち着きを見せた頃、京の山手殿から幸村宛に文が届いた。
そこには、男子はすくすくと育っているが、嫁たるものが、四人もの子供を抱えての侘び住まいは、はたの目から見ても気の毒であれば、早く九度山に呼び寄せて欲しい。さすれば互いに胸も休まり、昌幸も孫の為に悪しくあるまい、とあったので、幸村は父昌幸に相談し、堂ケ原の百姓家を手入れして、幸村はここに移り住むこととし、青柳清庵、樋口四角兵衛の両人を使いとして、母子五人を迎えに遣わした。これでやっと幸村も妻子供らを迎え、落ち着いた生活を送るようになった。
九度山で質素な生活を強いられ三年目を迎えた2月も半ばを迎えたころ、京より急報が九度山にもたらされた。京に潜伏していた昌幸の家臣より、霧隠が書付を持って九度山まで駆けつけてきた。
昌幸は直々にお目見えした。
「霧隠、ひさしぶりである。息災にしておったか。あの時以来じゃの」
「はっ、まだ生きながらえております。たぬきの最期を見届けぬうちは冥土には参りませぬ」
「うむ。で、此度は火球の報せと参上いたしたか」
「はっ、これにて委細は書いてございます」
昌幸はそれを受け取ると、広げて目を凝らして読んだ。
「こ、これは、誠か!」
「御意にございます」
それは、家康が征夷大将軍の宣旨の報せだった。と、いうことは秀頼公はもはや政権の継続者でないことを意味していた。だが、それは一方で、昌幸の蟄居が許され、信州に戻れるかもしれないという想像もあった。征夷大将軍ともなれば、必ず何かの恩赦があり、罪が減じられるのが慣例だからだ。
「左衛門佐を呼べ」
「はっ」
青木半左衛門が幸村宅に急いで駆けて行った。
「霧隠、書付を持って再び京へ走り、渡すように。それまで、休んでおれ」
「御意」
しばらくして幸村が慌ててやってきた。
「父上、何事でござるや」
「これを見よ」
と先ほどの書状を見渡した。
「これは、家康が征夷大将軍の宣旨の報せではございませぬか。いよいよ、豊臣家を一大名にするか、滅ぼすかの所存でございましょう」
「うむ、だが、我らの恩赦もあり信州に帰れるやも知れぬ」
「なるほど、左様でございます。兄上が必ずや本多殿に恩赦の件を話しておりましょうから、吉報を待ちましょう。佐助を京にやり、成り行きを調べさせましょう」
「そうだな、そうしよう。霧隠が奥に控えておるから、書状を持たせ、京に出立いたすように手配りいたせ。佐助には信之の所に届けるようにいたせ」
「かしこまってござる」
家臣を使えば、監視の者に疑惑が生じる恐れがあるから、此度はあえて
昌幸は京都所司代に探りを入れるべく、知人宛に書状をかくとともに、信之には、将軍宣旨があったのなら、必ず恩赦があるはず、それを舅殿を通じて確認するように書いていた。霧隠と佐助は健脚を持って向かったが、ひと月ふた月たてどその返事は全くなかった。
当然である。本多正信は、いかなることがあろうとも、真田昌幸は高野山から出さぬと厳命していたのであり、家康も真田には一言も触れなかったからである。
「好白よ、恩赦の便りは全く届かぬようじゃ」
好白とは幸村の出家名である。
「左様でございますな。徳川は我れに恩赦など考えていないのでしょう」
「うむ、よほど我らは嫌われておるらしい。つまらぬのう」
昌幸は、秀頼の身の危機を感じていたのであった。いずれ、家康は口実を設けて秀頼に弓を引くように仕掛けるであろう。秀頼側にそれをかわすだけの力量はないと見た。
夕陽を見ながら昌幸は何かを考えていたようだった。
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