第3話 江戸城、駿府城、名古屋城の築城

 家康は秀忠に将軍職を譲った後、駿府へ立ち寄った。天正13年に松平家忠に駿府城築城の命令を下したのは、浜松から駿府に居を改めた家康だった。しかし、小田原征伐後、関東に移封が決まった為、馴染んでいた駿府を離れた。その後中村忠一が領地としていたが、関ヶ原の勲功により中村は伯耆に移り、内藤信成が伊豆韮山から移って来た。しかし、家康は秀忠の将軍職を譲った後、江戸では三の丸に隠居する形となっていたが、江戸に下向するおり、駿府に立ち寄り、この地で隠居することを思った。駿府は気候は江戸に比べれば温暖であり、其の地形からも江戸にいく東海道の要衝の地ともなることは明白であり、将軍家を守ることと、老々の身を過ごすことは最適の場であった。


 そこで内藤を近江長浜に移し、駿府は幕府直轄地として、家康の居城とすることに決まった。慶長11年3月に駿府を視察し、20日に駿府入りした家康は4日間に亘り滞在し、駿府城改修の話をしたことと思われる。幕府は7月朔日より駿府城を修築すべき旨を美濃、尾張、飛騨、遠江、三河などの諸大名に命じた。


 また、これより前の正月には、江戸城に対する天下普請の令が発せられ、諸大名は江戸へ集まって来た。江戸城としては、慶長8年より工事に着手はしていたけれど、埋立工事が終わった程度で、まだ城と呼べるものではなかった。将軍となったからには、それにふさわしい城郭が必要であった。


 慶長11年正月19日、諸大名に石垣築城等を命じた。諸国より集まった人夫たちは、石材の産地である伊豆へ送られ、石材を採掘して江戸に輸送した。石の回送に就役された船は「石船」とか「石綱船」と呼ばれ、およそ三千隻がその任についていたという。一隻あたりの積荷は、百人持ちの石2個ずつとされ、一ヶ月に2回宛て江戸との間を往復する規約であったとされる。石材の価格は、百人持ちの石一個が銀200枚であったというから、船1隻で銀400枚となる。ぐり石とも呼ばれるごろた石のような小さな石は、一間四方の箱に入れられ、一箱分小判3両であったという。


 江戸城の石垣工事は、広大な規模であったので、各大名で部署を決めて工事に入った。黒田長政は天守台、毛利秀就ひでなり、吉川広家は本丸、木下延俊のぶとしは虎の門、細川忠興、福島正則、池田輝政、前田利常、加藤清正らは外郭の石垣工事に従事した。石垣の増築は4月末に終わり、一旦埋めた壕の土を掘り取るのに5月末までかかった。


 本丸の築城は、藤堂高虎が縄張りしたのを、3月昨日から数万の人夫を動員して行われた、9月23日に完成し、将軍秀忠は仮御殿から移った。

 竣工を終えた本丸を見て家康はご満悦で、各大名にその功を賞したが、藤堂高虎は2万石も賞詞された。


 慶長11年の第1次工事はこれで終わったが、翌年第2次の工事が始まり、今度は伊達正宗、上杉景勝、蒲生秀行、最上義光、佐竹義宣、村上義明、溝口秀勝らに命ぜられ、天守台の石垣工事や濠の開削などを担当し、この年天守が完成したのである。



 一方、駿府城の改修は、一旦修築命令が下されたが、来年正月まで工事開始を延期するとなった。島津忠恒は、江戸築城のために建造した石船が必要なくなると、早速150艘の石船を駿河に回送し、駿府築城のためであったが、その石は安倍川改修での治水工事に利用された。


 家康は10月に駿府に来ると、城の規模を南東北に拡張するよう指示して、江戸に帰った。駿府城の西側には安部川が流れ、さらにその西には大井川が流れており、大軍が容易く渡河できない。江戸時代にも大井川は橋がかけられなく、「越すに越されぬ大井川」と言われ、大雨が降ればすぐ川留めになったほどだ。大軍が通りやすい平野部は少なく、海岸縁には久能山もあり、守りやすい場所である。ここで時間稼ぎができれば、東に富士川があり、天下の峻険箱根がある。その間に江戸から出陣した秀忠軍が十分邀撃態勢を取れるのだ。


 慶長12年幕府は越前、美濃、尾張、三河などの諸大名に駿府築城の助役を命じ、2月17日起工した。三枝助左衛門昌吉、山本新五左衛門正成、瀧川豊前守忠往、佐久間河内守政實、山城宮内少輔忠久が奉行をつとめ、黒田長政、鍋島勝茂、筒井定次も助役した。家康は早くも3月11日に駿府に着いて工事の進捗を視察した。幕府はさらに工期を早めるために畿内五国および丹波、備中、近江、伊勢、美濃の諸大名に人夫の差し出しを命じている。それだけではなく、毛利輝元、前田利長、池田輝政、細川忠興、蜂須賀至鎮、森忠政、脇坂安治なども人夫を送っている。家康は駿府に止まり、工事の具合を視察し、其の工事への功績を讃えた。その甲斐あってか、7月3日天守閣を除いて殿舎が完成し、家康は新築相成った屋敷に移った。


 だが、不幸は起こった。12月23日深夜女中による失火により本丸が全焼し、家康は二の丸に難を逃れた。当初は家康暗殺による火付けとも思われたが、女中のより不注意な失火であった。再度本丸の復興工事が進められ、8月20日天守閣の上棟式が行われ、家康、秀忠は列席してこれを祝した。


 当代記の八月廿日の項にその規模が記されている。

 

   此の殿守模様の事 

 元段    十間  十二間

 二之段  同十間  十二間

 三之段  同十間  十二間

 四之段   八間  十間

 五之段   六間  八間

 六之段   五間  六間

 物見之段  天井組入 屋根銅を以て之を葺く (注釈省略)


 駿府城は5層7階の立派な天守となり、背後に聳える富士山とともに、光輝いていた事であろう。天守の高さについては、資料があまりないため、江戸城に比べてどうだったかわからないが、匹敵する高さを誇っていたことは確かである。また、後述する名古屋城の規模も大きく、徳川の威信と対豊臣への圧力、そして、外様諸大名の財力削減と臣従の堅固さをアピールするものだったのだろう。

 

 家康にとって、出身地にあたる三河そして尾張は重要な拠点だった。京・大阪より東に向かうには、関ヶ原を通り赤坂から尾州に至るルートと伊賀越えをして亀山から桑名へ抜けるルートがあった。この地を抑えることが重要だった。清洲城にあった福島正則は功績により加増され安芸広島という遠方に追いやった。代わりに入封してきたのが、松平忠吉であった。忠吉は東条松平家の4代目当主にあたり、秀忠の同母弟、井伊直政の娘婿にあたる。しかし、忠吉は関ヶ原の折に受けた傷が悪化して慶長12年死去してしまう。その後を継いだのが、弟にあたる義直であった。


 清洲城は斯波しば氏が城砦として存していたが、信長がその後本拠とし、信長が本能寺でたおれると、織田信雄、そして福島正則と城主は代わり、松平忠吉となった。清洲城は尾張西部を拠点とするには地の利は良いが、五条川を含め、木曽三川の影響で水害の災いが多々あり、籠城するには、水攻めの戦法をとられる欠点もあった。


 義直が移封されたことにより、この尾張を大阪から東上する要の地として巨大な城郭を築城する必要があった。新しい城地選定については、信長が一時拠点としていた小牧山城を改修する案、那古野の城砦を拡大する案、少し南の古渡に構築する案が出されたが、家康の裁決により、那古野の地に決められた。


 この件に関して、村田尚生たかお氏はその論考の中で、対大坂城戦略からみた考察、対天皇家戦略からみた考察、地形かた見た考察、家康の選地思想からみた考察、地名かたみた考察からこうまとめている。

「家康が日本を支配するにあたり制御しなければならなかった二つのもの、豊臣家と天皇家を意識した選地であったと考えられる。まず、豊臣家に対しては、大坂の陣を控え、港としての熱田利用や東海道防衛という目的で古渡か名古屋の2ヶ所を絞り込むことができる。戦に向けて「不死身」を意識するのであれば古渡の方が建設は容易であったに違いない。しかし、もう一方の天皇家を考えた場合、天皇家にとって重要な意味を持つ熱田社を掌握する必要がある。この熱田社は大きな亀に見立てられた名古屋台地の南端に築かれているが、古渡に築城したのであれば、城は亀の背に乗ることになり、亀の指令塔である頭部にある熱田社ひいては天皇家の自由にさせてしまうことになる。大亀の力を人間の力で押え込むためには、亀の尾の上にあたる名古屋に築城することにより亀の動きを封じ込めることが最も効果的な方法と考えられたのではなかろうか。そうすることにより、天皇家の自由を奪うことができると考えたはずである。信仰に篤く、呪術を多用したといわれる家康にとって名古屋こそが豊臣家と天皇家を抑える唯一の選地であったのではなかろうか。そして、難工事をおして行われた普請、異様なまでに大きな天守閣作事も名古屋から富士を眺望し、「不死身」となるための必然であったと考えられるのである」(日本都市計画学会編 都市計画論文集第36巻所収「名古屋城の選地に関する研究」2001)


 さて、その名古屋城の築城は、慶長15年正月9日、家康は名古屋の地を訪れ、縄張りのことを仰せつけた。前年に普請奉行として牧助左衛門長勝らが派遣され、検地、地割、縄張りの作業を開始していた。家康の命により、駿府城の役務を担当していた諸大名は、駿府の作業を終えて2月末までに続々と名古屋入りしてきた。前田利光、黒田長政、細川忠興、田中忠政、毛利高政、毛利秀就、山内忠義、鍋島勝茂、寺沢広高、竹中重門しげかど、稲葉典道のりみち、金森可重よししげ、木下延俊、生駒正俊、蜂須賀至鎮よししげ、加藤嘉明、加藤清正の17諸侯に及び、のちに池田輝政、浅野幸長、福島正則の三氏も参加している。


 工事は5月5日に縄張を完了し、6月3日より石垣の根石杖付工事に着手、同月13日には本丸根石工事の大略を終わり、次に二之丸の根石据付工事を開始している。かなり早いペースでの進捗である。天守の石垣は加藤清正が担当していたが、8月27日に完了し、九州熊本へ帰還の途についている。築城に用いた石材は春日井郡味岡村岩崎山で採掘されたものと、各地から採掘されたものが使用されたが、堀川はまだ完成しておらず、運搬には苦労したことと思われる。材木のほとんどは木曽山中から伐採されたものを木曽川を下して、犬山もしくは熱田から運搬して利用した。


 天守閣は慶長17年12月頃には完成したと思われ、天守のいただきには一対の鯱が据えられた。金色と輝く鯱は城下をまばゆいばかりに輝かせる徳川の象徴を示したことだろう。その金色鯱に使用された金は慶長小判で17,975両分と言われるが、その重量は1両が約17.76gとなるので、総重量約319.2kgとなる。金の品位が82. 6%なので、純金量は約263kgとなる。現在の相場で計算すると12月22日での税抜買取価格が1gあたり4,574円になるので、14億6千万円との価値が見込まれる。ただし、現在の天守のものではありませんが。

 この後、城郭の全体の完成は、大坂夏、冬に亘る戦乱により中断し、完成するのは慶長20年になる。


 とにもかくにも、江戸、駿府、名古屋と徳川の重要な三城がほぼ完成し、これに合わせて、彦根城、さらに伊賀上野城の築城により、大阪勢の東上を阻止する防波堤となる城郭堤は完成してきたのであった。


 以上のことがらが関ヶ原以後の流れです。この流れの中でいよいよ次回より秀頼と七将の物語が始まります。

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