第2話 家康・秀忠将軍宣下

 慶長8年(1603)から大きく政権の動きは変化を遂げていく。正月元旦、諸大名は大坂城に出向き、豊臣秀頼に年頭の挨拶をし、明けて2日、今度は伏見城の家康の元へ足を伸ばしている。この伏見城は、慶長5年関ヶ原の戦いにて西軍により攻められ、鳥居元忠以下が籠城して奮戦したが、最後は炎上して落城したのであるが、慶長7年6月に藤堂高虎を普請奉行として再建に入り、壮大な曲輪群は廃棄されたが、城だけの再建を行い、12月には完成していたのである。そこで、家康は諸大名の挨拶を受けた。


 そして翌月8日、家康は大坂城に出向いて、秀頼に挨拶を行った。これが家康にとって秀頼に対する自分からの最後の謁見となった。まもなく、官位が逆転する事態が生じるのである。


 2月12日のことである。後陽成天皇が参議勧修寺かじゅうじ宰相光豊を勅使として伏見城に遣わした。上卿しょうけいは広橋大納言兼勝であった。

 宣旨は、征夷大将軍の宣旨、源氏長者の宣旨、官務氏長者の宣旨、大外記右大臣の宣旨、大外記官務牛車宣旨、随身兵仗の宣旨、淳和奨学じゅんなしょうがく両院別当の宣旨(徳川実紀より)であった。

 征夷大将軍の宣旨は日光東照宮に所蔵保管されているが、それを下記に示す。

 

   内大臣源朝臣

 左中辨藤原朝臣光廣傳

 宣權大納言藤原朝臣兼勝宣奉

 勅件人宜為征夷大将軍

 者

   慶長八年二月十二日中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰おづきすくね孝亮奉


(内大臣源朝臣(家康) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広)伝へ

 権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝)る みことのりを奉るに、件の人よろしく征夷大将軍に為すべし てへり


 この家康の征夷大将軍について笠谷和比古かすやかずひこ氏はその論考の中で、「慶長6年正月時点で年齢9歳ながら朝廷官位が従二位権中納言という高位にある秀頼が、やがて成人して関白職につくであろうことであり、そしてその時には、家康の政務代行権は吸収されて豊臣氏の政治権力が回復され、家康およびその子秀忠は、関白秀頼の意命に服さねばならなくなるような事態の訪れる可能性があることである。よし家康は実力によってその身一代の支配は確保されるとも、家康の死去とともに、豊臣氏による天下支配が復活してしまうことが、強い現実性をもって予想させられるのである」(国際日本文化研究センター紀要・日本研究第7集所収「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制」)と述べ、「政治体制の中において、覇者としての家康と徳川家が豊臣家を超えて行っている支配はあくまでも実力支配なのであって、家康個人の力量によって実現されてはいるが、しかし同時に永続性を欠いた不安定な支配でしかなかったのである。さればこそ家康は、その意味において自前の天下支配の正当性、徳川家の永続的な支配を保証してくれる制度を構築する必要があったのである」(同)ということで、秀頼が関白職を軸として政権を構築していたのに対し、家康はあくまで従来の征夷大将軍という官職を得ることによって、豊臣恩顧の大名からの指示を得るという、隠蔽性的手段を使って、徳川体制の確立を図ろうとしたのであった。


 そして、この年の3月21日、家康は新しく造営された二条城に入った。この築城はもちろん征夷大将軍に就任することを見越したものと見られ、朝廷との交渉の場として築かせていたのだ。権威としての場の象徴として築城したのだ。これは秀吉が聚楽第を築いたのと同じ発想である。

 この二条城の築城にあたっては、町家の4、5千軒は潰されたという。天守の完成はまだ3年後であった。


 渡邊忠司氏はその論考にて、「徳川政権は慶長5年以降、伏見城を豊臣氏および畿内・西国支配の軍事的拠点と位置づけたが、それとともに二条城の築造に見られるように、二条城を京都所司代と奉行による禁裏および京都市中と周辺地域の治安・警察、また軍事的行政機構の中核と見なしていたといえよう」(佛教大学 歴史学部論集第3号所収「徳川政権と京都二條城警戒体制の確立」2013)と述べている。


 3月25日将軍宣下の御拝賀として参内した。この時、扈従こしょうとして、越前宰相(結城秀康)、豊前宰相(細川忠興)、若狭宰相(京極高次)、播磨少将(池田輝政)、安芸少将(福島正則)の5名が参内しているのであり、彼らは秀吉恩顧の大名であることであり、結城秀康は家康の実子ではあるが、一時は秀吉の養子となっていた人物である。


 だが、家康は秀頼に対しての縁組を結実させた。もともと、秀吉が遺言としていた秀忠の娘千姫との婚姻であった。家康はこの遺言だけは守ったといえる。秀頼の母淀の方と千姫の母江の方は浅井長政とお市の方との子であり姉妹の関係である。秀頼11歳、千姫9歳であった。当時の血縁関係で政権を見ると、実に面白い。いずれ、別の筆耕の際に紹介する機会があればと思う。


 家康の将軍宣下により豊臣家は、将来の政権が簒奪されるのではないか危惧する考えが生じたが、秀頼と千姫の婚姻により、その危惧は薄れたのである。


 10月家康は伏見を発って江戸に向かったが、家康にとって、江戸に幕府を開くことが先決であり、政治の中心を京都より江戸に移すことが重要だった。諸国の大名も江戸に屋敷を構える者が多くなってきた。


 翌年慶長9年の8月18日は、秀吉が亡くなって七回忌を迎えるので、家康は秀頼とともに豊国神社臨時祭を8月14日催行した。この年は他に何事もなく過ぎたが、翌10年正月9日家康は上洛のため江戸を発し、2月19日伏見城に入った。そして2月24日秀忠が10万に及ぶ軍勢を率いて、江戸を出発し、3月21日伏見に到着した。この江戸からの大軍の上京に、大阪方は驚き厳戒態勢に入った。よもや秀頼公と一戦交える気かと思って、京に間者を放ち様子を探らしたが、どうもそうではないらしいことがわかったが、仔細を聞くに及んで、家康が秀吉との約定を違えるような事態が起きたのが判明したのである。それは、秀頼に政権を移譲しないのではないかという懸念だった。


 4月7日、家康は将軍職を子秀忠に代えることを朝廷に奏請したのだ。そして秀忠への将軍職継承が認められたのである。

 また、12日豊臣秀頼は、内大臣より右大臣に任ぜられたが、これも秀忠を内大臣にするためであった。


 つまり、次期政権は秀頼ではなく、秀忠が継ぐという徳川政権の確立であった。大阪秀頼方の落胆および怒りはいかほどであったかはかりしれない。家康は秀忠の将軍職就任に際し、秀頼に上洛するよう促した。それも直接ではなく高台院(北政所)を通じてだが、淀殿は断固として上洛することを拒んだ。


 当代記には、こう記されている。

「五月七八日ころ、大坂下民荷物運送し、人の心相定まらず、是は此頃秀頼公伏見へのぼり給い、其の上上洛し給う尤もの由、右府家康公内存有り、此の旨京都の大政所より大坂へのたまう処に、秀頼公母台、是非共其の儀これあるまじく、若したって其の儀に於ては、秀頼公を生害しょうがいせしめ、其の身にも自害あるべきの由、頻りに宣う間、これを聞き下民周章斜めならず、秀頼公伏見え上り給う事、勿体もったいなきの由、上方大名共のうちより、大坂へ内通あるの由云う也、之に依て秀頼公上洛延引也」


 淀殿としては、子の安否を心配したのだ。徳川の勝手にはさせぬという決意を示した。

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