豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー

木村長門

第1話 関ヶ原後

 関ヶ原の戦いにより、徳川家康は石田三成以下の反徳川体制を崩壊させた。だが、肝心な豊臣家は大坂城に健在であり、まだまだ気を抜けない情勢であった。石高65万石に落ちた豊臣家であったが、秀吉が遺した財宝はまだ大坂城内に蓄えられており、まだ家康の天下統一に向けての目ざわりな存在であったことに変わりはない。


 また、石田三成が討伐されたことにより、秀頼に心を寄せる者が、いつ家康に背いて、豊臣に味方するかもしれないという不安もあった。そのためには、なんとしても豊臣家を抹殺しなければ徳川の安泰は図れなかった。しかし、尋常のやり方では、豊臣に味方する者が増えることは十分考えられ、じっくりと豊臣家を料理することを考えねばならなかった。


 関ヶ原の戦いは、秀頼がいたけれども、実際は、家康対三成の戦いであったように豊臣恩顧の大名らも反三成の立場から家康に味方するよう動いたのだ。

一方、豊臣家でも、淀君はじめ重臣らが今後のあり方について考えていたが、当然、いざというときは豊臣恩顧の大名は秀頼の元に参集するであろうという思いではあったが、家康の所業を考えれば、秀頼に天下を任せるのではなく、自分自身が天下を治めることに邁進していることを憂慮しないではいられず、どうしたらそれを防ぐことができようか、考えていた。


 まさにほんとうの関ヶ原の戦いはこれからが正念場であったのだ。

 

 東西の分かれた関ヶ原の戦いの結果、多くの浪人が現出した。石田三成派は一掃されたが、徳川と豊臣との戦いとなれば、徳川に味方しか武将もいつ豊臣側につくかその進退はわからぬのだ。一部の腕達者な浪人は石高が増えた東軍の武将に召抱えられたが、大名格や侍大将級ともなれば、プライドもあり仕官するのもまた屈辱であり、ひそかに身を潜め、また近い将来ありうる戦での勝利に貢献して、一大名となりうる夢を捨てるわけにはいかなかった。果たして、浪人した武将たちの運命はいかになったのであろうか。


 その前に、もともと関ヶ原の戦いを誘因した上杉景勝の家康討伐により、景勝は領地の減封移封の処分であり、また九州の島津氏も家康に恭順の意を示して、所領は安堵されている。


 上杉景勝が何故、減封とはいえ潰されなかったかは、やはり直江兼続の存在が大きかったようだ。景勝が慶長5年10月には家康との和平の議を承諾することを決し、其の意を受けた兼続が、本庄繁長をして上洛の使として派遣した。本庄繁長は上杉家の重臣の一人であり、天文8年(1540)の生まれであり、還暦を迎えていた。武勇伝も数多く残されており、慶長18年(1613)死去した際には、景勝は「武人八幡」の称号を与えていることからも、其の武人としての活躍が分かるであろう。


 11月に家康への陳謝に向かった繁長は、伏見の上杉邸に到着するや、本多正信、榊原康政らと接見して、景勝の罪を陳謝した。家康もこの陳謝を受け入れ、翌年の7月に景勝上洛の話が決定した。繁長は見事に其の役目を果たしたのである。

翌慶長6年7月朔日、景勝は兼続を従えて、若松を出発し、24日伏見上杉邸に到着し、承兌を以て家康に到着した旨を報告した。

 8月に至り、景勝は大阪に至りまづ秀頼に謁見し、続いて家康との謝罪会見に臨んだ。ここで、景勝は家康より伊達・信夫・置賜三郡合わせて三十万石に減封との処分を命じられたのであった。


 景勝の所領を没収する云々は画策されたらしいが、最後は家康の思いにより減封という処分で済んだのである。しかし、120万石から30万石という落差は上杉家にとってはかなりの痛手であった。上杉家の家風は家臣を放逐しない、つまり浪人させず、禄は減っても家臣として雇用することだったから、なおさら財政的には将来厳しいものになることは明白だったわけであり、質素を旨とならざるを得なかったのである。


 さて、上杉氏の処分で関ヶ原に関する処分は完了した。ここからが、家康としては、邪魔立てする者は誰もいない。好き勝手にやればよかった。秀頼はまだ幼く、しばらくは自分の思いのままであることは事実だった。


 人質、政略結婚、これからはどんどんと進めていっても、誰も文句など言うものはいないのだ。

 慶長6年の9月には、毛利輝元が子の秀就を人質として江戸に下した。輝元としては屈辱のことだが、7カ国120万石から周防・長門の36万石へと処分されたことから、もう我慢して人質を出すしか仕方がないのだ。もともと大老の一人であった輝元からしてみれば、負けたらこうなるとの実感を受けた一人だったに違いない。

 また、同じ9月には前田利常の元に秀忠の娘珠姫が嫁いでいる。利常は利家の子で、長子利長の弟に当たるが、家督をついだ利長に子がなかったので、利常が養嗣子となっていた。


 この年の5月に家康は、京都に新たなる二条城を築城することを命じた。これは京阪の防衛のためと、朝廷との折衝のために命じたものと思われ、秀吉の造営した二条城は廃城となっている。


 慶長9年6月肥後人吉城主相良長毎ながつねが、その老母を江戸に差し出した。翌10年には、浅野長政、藤堂高虎が妻子を江戸に移した。11年には、遠藤慶隆よしたか、有馬豊氏、西尾光教みつのりが人質を送っている。さらに15年には杉原長房、脇坂安元が妻子を送っている。段々と人質を送ることが慣例がしていくのである。


 また、政略結婚として続々と結びつきが図られた。慶長7年松平家清いえきよの娘を養女として浅野長重に、9年には牧野康成の娘を養女として福島正則に、10年4月には、松平定勝の娘を養女として、山内忠義に、同年10月には定勝の長子定則に島津忠恒の娘を、同次子定綱に浅野長政の娘を、同年榊原康政の娘を池田利隆に嫁がせている。さらに12年には井伊直勝の妹を伊達秀宗に嫁がせ、姪にあたる松平定勝の娘を中川久盛に嫁がせている。13年7月には松平忠直の妹を養女として毛利秀就ひでなりに、14年4月小笠原秀政の娘を養女として細川忠利へ、15年6月奥平家昌の娘を堀尾忠晴に、11月本多忠政の娘を養女として有馬直純に、16年4月池田輝政の娘を養女として伊達忠宗へ、18年松平康元の娘を養女として毛利秀元に、加藤清正の娘は、榊原康政の子康勝に嫁がせている。


 このような政略結婚は、秀吉没後にも、遺言を無視して行われたが、関ヶ原後はさらに堂々とその親徳川のために行われた。特に豊臣恩顧の大名をターゲットにして、徳川親藩大名たちとの婚姻が結ばれ、結束を図っていき、豊臣離れを加速させていったのである。


 秀頼方の動きは、どうであったかと言うと、秀吉が生前に行っていた社寺修復を関ヶ原以後、再開し始めていた。秀頼による社寺の再興及び造営に関しては、家康により、豊臣家の財力を消耗させることであったとされるが、これについて藤井直正氏は、その論考において追求している。


 それによると、「豊臣秀頼の造営にかかる遺構は、京都府・滋賀県などの著名な社寺に実際に伝えられ、桃山文化を代表する文化遺産として識者の関心を集めて来た。と言っても、その対象がほとんど建造物であるために、美術史家・建築史家の認識に止まり、これを歴史的に意義づけるような試みは未だ行われていない。たとえば、造営の対象となった各々の寺社が、当時の豊臣政権とどのようにつながっていたのかという問題や、造営の対象がどのような手続で選択されたのかという問題、あるいはそのころの建築がどのような組織で行われていたのか等、巨視的な視点に立っての考察は行われたことがないと言っても過言ではないであろう」(藤井直正著、大手前女子大学論集第17号所収「豊臣秀頼の社寺造営とその遺構」1983年)と述べ、造営に関する資料を分析した結果、「秀頼による社寺の造営は、慶長4年(1599)秀頼の数え年7才の時にはじまり、慶長19年(1614)22才に至る16年間に及んでいる。そのはじまりは山城教王護国寺(東寺)の金堂で、その終焉は建造物としては河内観心寺訶梨帝母母堂であり、そこに刻まれた銘文の文言が大坂冬の陣の導火線となり、豊臣家滅亡の原因となった山城方広寺の銅鐘であった」(同論集)とし、種類別に神社が32箇所、寺院が50箇所、ほかに橋梁の架橋が3箇所、都合85箇所もの多数に登るとしている。特に慶長7年から13年迄の間に66件もの修復造営が行われたという。

 京都の東寺金堂をはじめとし、河内の枚岡神社、摂津の須磨寺、河内の誉田こんだ八幡宮、京都東寺南大門、比叡山横川中堂・曇華院どんげいん、醍醐寺三宝院仁王門、京都相国寺法堂・鐘楼、尾張熱田神宮、石清水八幡宮、北野天満宮等々、多数にのぼり、今日に至って文化財になっている貴重な建造物が多い。相当の財力がなければ成り立たない国家事業とも呼べる事業であった。

 これから推測するに、秀頼の社寺再興及び造営は、父秀吉の偉業を後傾しつつ、母淀殿の意志も強く働いていたことは言えるであろう。それが、家康の豊臣家の財力消耗と結びつけるのも、全ては無理であろう。

 家康としては、膨大な財力を持つ豊臣家を疲弊さすことであったであろうが、太閤殿下の残した遺産は、家康の想像以上の遺産を残していたのであって、十数年に亘る社寺造営を続けても衰えを見せない豊臣家に、財力に関しては畏怖を感じていたのかもしれない。それが、銅鐘の銘文批判に至ったのかも知れない。

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