2-⑦



 パチパチと火の爆ぜる音がする。


 ゆっくりと瞼を開いてみれば、眠りにつく前に在った焚火が変わらぬ姿のままそこに在った。


 そういえば、あたしは夢を見ていたんだっけ。途中までは夢を見ているのだという自覚があったのに、途中からそれをすっかりと忘れてしまっていた。


 背もたれと化している背後の黒山羊、バフォメットが、故意にあのころの夢をあたしに見せたのか。あるいは、偶然夢として過去の出来事がよみがえって出てきただけなのか。どちらにせよ、ひどく懐かしい事柄を思い出すに至ったあたしは、深いため息を吐く。


「おや、早い目覚めだな、我愛しきマリアよ」

「……夢を、見たわ」

「どんな夢だ?」

「昔の、始まりの夢よ」

「ほぅ」


 本音を言うのであれば、「胸糞の悪い夢」だったけれど、背後の黒山羊はそれ以上のことは訊ねてこず、沈黙する。あたしもまた独り言を言う気分にはなれず、彼の沈黙にあやかりながら焚火の炎を見守り続ける。


 彼――あの屋敷の一室、あるいは蠱毒という部屋の中で出会ったバフォメットという黒山羊頭の自称「魔王、および悪魔の一柱」は、ヴィオレッタが退治したはずだった。けれどあたしの考えていた通り、彼は退治されてなどいなかった。


 何しろ彼はヴィオレッタとペチュニアの身体が炎に巻かれ、真っ黒に焦げた後。未だあたしの周りで燃え続ける炎をものともせず、足元の影から彼は出てきたのだから。


 当時の彼曰く、あの時は退治されたふりをして、あたしの影に数十年もの間ずっと隠れていたらしい。それでいて、あたし達が苦悩する姿を、舐り見、観察していたとも口にした。


「お前たちが苦悩し、互いの腹を探り合う姿は、非常に滑稽で見ものだったぞ。嗚呼。我の介入一つで、お前たちの苦悩が取り払われる程度のものであっても、非常に、な」


 そう言ってケラケラと肩を揺らす彼の姿は、今思い出しても憎たらしい。


 黒山羊閣下にとってあたし達の苦悩する姿は笑うほど滑稽で、それでいて彼が介入するだけで解消してしまうような些細なことだったのかもしれない。けれど、当事者であるあたし達にとってみれば、それらはとても重大なことで、頭を悩ませて当然のことだった。


 だから、当時のあたしはそんな不躾な彼の身体を殴打したの。何度も何度も、悲しみと、怒りと、恐れが入り混じる感情を、力任せに彼へと叩きつけた。


 そもそも、彼さえ、この黒山羊頭の悪魔さえ居なければこんなことにはならなかったのだから、怒りをぶつけられて当然だったと今でも思う。


 まあ、流石に。今ではそんなことしないのだけれど。


 身体は成長しないまでも精神的には成長しているから、衝動に任せてバフォメット、あるいは他人を殴ったりしない。それに加え、現状、彼に見放されてはいけないと分かってしまっているから、あたしは彼の気を削ぐようなことは極力しないようにしているのだ。


 何故ならあたし自身がほぼ無力だから。


 多少魔術が使えても、あたし本来の能力はかなり低く、正規の聖女や魔女と比べれば殻つきのひよこも同然の力でしかない。そんな脆弱な力の中で出来ることと言えば、泉の精霊に頼んで相手を泉の中に引きとめてもらったり、妖精に頼んで身隠れの粉を振りまいてもったりする程度。


 ヒトとしての人生を生き過ぎ、その中で努力していてもなお、あたしにはまだその程度の力しかないのだ。


 だから、あたしはバフォメットに再び出会ったころから今日に至るまで、彼の力に頼りきっている。


 黒い大斧その物も、それを振り回すための腕力も、周囲に強固な結界を張り巡らされてもなおそれを容易く屠れる術も、すべて黒山羊の能力に依存し、委ねきってしまっているの。


 いわばあたしは、彼が居なくては何もできない幼女にすぎないのだ。


 そして、そんな無力な幼女にすぎないあたしの傍にバフォメットが居る理由はたった一つ。あたしが彼の言う「我愛しきマリア」であるからだ。


 あたしが「我愛しきマリア」であることは間違いのない事柄だとしても、……そう、だとしても、彼があたしに飽きない保証は何処にも無いの。


 少なからず、あたしは永遠に近い寿命と肉体を得てしまっているから、果てのない未来の内で、あたしの観察に飽きた彼があたしを見捨てない保証はない。


 もし、見捨てられてしまった時。あたしは一体どうしたら良いというの? もし、力のない状態のまま捨てられて、白の祈祷騎士に捕まりでもしたら? それこそ、悪夢に等しい事柄が待ち受けているに決まっているわ。


 炎の中では幸いにも、衣服や髪に引火した時点で「祝い」が発動し巻き戻ったけれど、剣や鈍器、鞭などで攻撃された場合、あたしの身体は傷ついてから巻き戻るの。


 そして、巻き戻るからといって痛くないはずがない。苦しくないはずがない。あたしだって人並みに痛覚はあるし、そんなことは絶対にされたくない。絶対に、嫌なの。


 だから、そうならないためにも、バフォメットに見捨てられないように、あたしはいろいろと努力をしていた。


 筆頭としては、やっぱり今あたしの膝上に頭を預けて眠るペチュニアかしら。


 すやすやと寝息を立てて眠る成人男性の彼。本来の名は「ツクバネ」であるらしいけれど、あたしにしてみればソレはどうだっていい情報にすぎないの。いいえ、そもそも彼自身、あたしにとってはどうでもいい存在だった。


 というのも、すべてはあたしが「今を無事生きるために、必要なことだから」に他ならない。


 その理屈としては、少々回りくどいかもしれないけれど、こうだ。


 あたしは庇護者でもあるバフォメットのお気に召すようなことを行い続ける必要がある。故に、あたしはバフォメットの真似、いわば「我愛しきマリア探し」ならぬ「幼女に対して倒錯的な性癖を持つペチュニア探し」をしてみることにした。


 一説によれば、相手の行動を真似すると親近感が湧くらしいから、黒山羊閣下の真似をしてみているのだけれど……結果として現状うまくいっていると思う。今のところバフォメットがあたしに対して同族嫌悪を抱いている様子は見られないし、見放されてもいないから。


 最初の頃は「ペチュニア」の幼女趣味を理解や制御ができず、いろいろ模索する中で、大斧で両断するに至ってしまう事例は多々あった。けれど「ペチュニア」の人数が二桁に入りかけた頃から、やっと彼らの趣味や性癖を理解し、きちんと手綱を取って制御してあげられるようになった。


 そして、今膝上で眠っている三十二番目の「ペチュニア」は、その中で最も御しやすい子。


 表情こそ、失ってしまっているようだから如実には分からない。けれど、それでも彼の目は口ほどに物を言っていたから、彼が何を思っているかは多少判断が着くの。例えるなら、嬉しい時にはきらきらと輝き、悲しい時にはじっとりと濡れ、苛立っている時には静かに燃える……といった具合に。


 加えて、彼には巻き戻りの「祝い」を分け与えているため、ないがしろにしても歴代のようにあっけなく死にはしないし、秘めたる性的倒錯も未だそれほど強くない。代わりに執着心だけは一等強くて、膝上の彼はあたしを盲信すらしているようだった。


 あたしのエゴによって生かされたに過ぎないのに。それも、終わりのある生なのかも分かっていないのに――そもそもあたしが盲信するに足る人格者でもなければ、彼が内に抱く幼女の理想像とはかけ離れているかもしれないというのに――盲目的に、盲信的に、あたしに対して献身するなんて、愚かしい。


 ピンッ、と彼の額を指でつまはじき、背もたれと化している黒山羊閣下へ更に体重をかけた。


 つまるところ、現状あたし達は互いの関係において得のある、良好な関係を築いているのだ。


 あたしはバフォメットに見放されないよう、ペチュニアを使って彼の気を引いている。ペチュニアたちは理想とする幼女であるあたしに、最期の瞬間までずっと付き添ってもらえる。それに世の中としても、あたしが「幼女に対して倒錯的な性癖を持つペチュニア」を確保していることにより、いたいけな幼女たちがペチュニアたちの手に堕ちる、という事態を未然に防げる。


 なんて良好な利害関係かしら! とは流石に思いもしないし、正直なところ、バフォメットの気を引く手段をもう少し確固たるものへと変えたい気持ちはあるのだけれど、ソレはまだ模索中。でも、最終的には身を守れる魔術や戦術、あるいは手段を身に着けることが一番有力なのでしょうね。


「……そう容易く強くなれるんだったら、とっくに強くなっているというものね」


 長い時間努力して、未だ“ほぼ無力”なのだから、まだまだ先は長い。


「ん……」


 器用にも、あたしの小さな膝上で寝返りを打ったペチュニアがうっすらと瞼を開けた。ぼんやりと動く紫色の……ヴィオレッタとおそろいのアメジストの瞳はその先を定めておらず、寝ぼけているだけなのだと判断が着く。


 ぽんぽん、と優しく彼の背を叩き「まだ眠っていなさい」と囁けば、その言葉に促されるようにペチュニアは「ほっ、」と息を吐き、すぐに瞼を閉じた。


 ――ヴィオレッタと、おそろいのアメジストの瞳。


 炎の灯りで照らされる髪は、癖のあるプラチナブロンド。そして、均整のとれた顔つき。膝上のペチュニアの外見こそ、あたしを孤児院から金で買った人であり、始まりのペチュニアに類似しているけれど、瞳は、瞳だけはヴィオレッタと同じ。まるで彼は、あたしが居なかったら生まれていたかもしれない、ヴィオレッタとペチュニアの子供の様。


 だからといって彼を慈しむような思いを抱くことも、他のペチュニアと比べて贔屓することも無い。ただ、彼の瞳の色を認識すると、時折ヴィオレッタのことを思い出す自分が居るの。


 先ほどまで見ていた夢の中のあたしは保身の事ばかり考えて、自分の感情についてはあまりこだわってはいなかった。けれど今ならわかる。あたしは、ヴィオレッタのことが大好きだったのだ、と。


 ヴィオレッタの歳老いても変わらぬ清らかさと、より一層豊かになった知識量や、聡明さ、優しさは今でこそ憧れの対象。それに何より、彼女は、彼女が受けるべきだったペチュニアからの愛情を奪っていた、憎く思い、嫌っても仕方のなかったはずのあたしを邪険にせず、むしろ愛そうとくれた。そんな彼女を大好きにならずに、愛おしく思わず、どう思えというのかしら?


 その好感の根源はもしかしたら、被害者同士の同調や共依存の類なのかもしれない。でも、それでもやっぱりあたしが抱く、ヴィオレッタへの気持ちが変わることはないの。


 ただ、憧れであり、大好きであるヴィオレッタに関して、どうしても口惜しく思ってしまうことが一つだけある。


 それは彼女が、今もあたしの傍に居続ける、忌々しい黒山羊の策略にまんまと引っかかり、判断を誤ってしまったこと。ソレだけが何とも口惜しくてならないの。


 確かに、あの蠱毒の中で黒山羊閣下に取り込まれたあたしは、常人であれば耐えることのできないところまで――それも、ほぼ肉塊と当たり障りのないところまで蝕まれていたかもしれない。


 けれど、彼女はあたしを助け出すべきではなかった。


 今でこそ分かることでもあるけれど、この黒山羊は自らの手であたしを殺すようなことは決してしないのだ。


 例え消化器官に解かされ、肉の塊、あるいはそれらの類へと変貌していたとしても、彼はソレをいとも容易くもとの容に戻してしまうに決まっている。……まぁ、あたし自身、こんな身体になってしまっているから、絶対にそうである。とは言い切れないのだけれど、多分、この黒山羊はそうするのだ。


 そもそもあの時において、彼はあたしを蝕んだり、汚染したりするために体内に取り込んだのではない。蠱毒と化したあの部屋を魔力で満たし、外部にその魔力を漏らすために必要な手段だったから、あたしを体内に取り込んだに他ならない。


 けれどヴィオレッタはそれを咄嗟に見抜けず、あたしを生かすために「巻き戻りの祝い」を与えてしまった。


 まぁ、この場合、策略として“わざとそうさせた”のは黒山羊でしょうから、彼女の判断をとやかく言うのは適切ではないのかもしれない。けれど、あたしに「祝い」さえ与えなければと、やはり思ってしまうことぐらい、許してほしい。


 次元を超えて世界を転々としているらしい「我愛しきマリア」と共に在りたいがために、自らも次元を超えて世界を巡っているという執念深いバフォメットの事だから、自分のおどろおどろしい姿を見たヴィオレッタが判断を誤り、あたしに、「祝い」を与えると鑑みて行動していたとしても何一つおかしなことはない。むしろそう考えた方が、しっくりとくる。


 なにしろ彼はあの蠱毒の中の魔力濃度を上げる際に「純粋で純情な聖女が厭いそうな方法が、望ましいだろう」と言っていたのだから、あたしの考えはあながち間違ってはいないでしょう。


 嗚呼。でもそう考えると、彼女に判断を違わせた、後ろの悪魔がより一層憎らしくなってくるわね。


 この忌々しい黒山羊の介入さえなければ、ヴィオレッタがあそこまで悩むことも、あんな最期を迎えることもなかっただろうし、あたしもまた歳をとり、死に至れていたはずなのだから。


 嗚呼、なんて憎らしい黒山羊なのかしら!


 ぎゅう、と柔らかく温かな体毛の向こうに在る黒山羊閣下の皮膚を力任せに握り、忌々しさを発散してみるが、彼の素振りといえば「こそばゆいな、」と鼻で嗤った程度。所詮あたしのする行いなど、彼にとってはその程度にすぎないのだ。


「火の番は我が引き受けているが故、愛しきマリアよ。お前は眠れ」

「……そう、ね」


 ほんの一時の眠りにおいて見た夢が衝撃的だったがために、考え事ばかりしてしまったけれど、今日のあたしはとても疲れていて、安眠を求めているのだった。


 もぞもぞと、膝上のペチュニアに影響しない程度にほんの少し眠りにつきやすい体勢をとったあたしは、やわらかな黒山羊の体毛に埋もれ、ゆっくりと瞼を閉じる。




 嗚呼、願わくは、願わくは。


 未来のあたしに、永遠の安息が在らんことを。



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