2-⑤



 世界は白色に満ちていた。


 パチパチと二度瞬きをすれば、傍らから「ああ、良かった」と、息を吐く音が聞こえてくる。


「おはよう、メィリアちゃん。気分はどうかしら……?」


 首を動かしその声がした方を見やれば、見知らぬ細身の女性が居た。


 艶やかな黒髪に、宝石のような紫色の瞳、手入れの行き届いた綺麗な肌。本来ならばきっと綺麗な目元なのだろうけれど、数日の疲れが取れていないのかそこにはクマが張り付いてしまっている。


「……きらきらの、むらさき」


 彼女の双眸。それは黒山羊の記憶である世界を覗き込んできた、紫色をした二つのきらきらその物。


 嗚呼、彼女があたしを黒山羊の腸から救い出してくれたのね。


「……ここ、は?」


 彼女に先んじて何かを尋ねられた気もするけれど、目覚めたてのぼんやりとした思考の中では何を尋ねられたか思い出せない。仰向けになっていた身体を起こして、ぐるりと辺りを見渡してみれば、そこはあたしに宛がわれていた部屋だった。


 初めて此処へ連れてこられた時と変わらぬ淡い桃色の絨毯に、薄い膜のような天蓋。そして「かわいいらしい」や、「愛らしい」、と言った言葉がピタリと当てはまる家具や、装飾品たち。見慣れたそれらの中、いいえ、あたしに声を掛けてきた彼女の隣には、あたしを孤児院から金で買ったパパもいる。


「此処は君の部屋だよメィリア。具合はどうだい? 水を飲むかい? それとも、ご飯をたべるかい?」


 ずいずい、とあたしに顔を近づけてくるパパを、傍らの女性は「ペチュニアは少し黙っていてくださいまし」と押しやった。そして彼女はあたしの傍へ、さらにその身を寄せてくる。


「わたくしはヴィオレッタ・オールミニー。この連合王国筆頭の聖女であり、この屋敷の主であるペチュニア・オールミニーの妻ですわ」


 妻? あたしはそんな人の存在をペチュニアの口からきいたこと、一度たりともない。


 あたしが居ない間に、パパはヴィオレッタと名乗るこの彼女と結婚したのかしら? それとも、彼女と結婚していたことをわざとあたしに明かさなかったのかしら?


「あ、あたしは……」

「ああ、無理に喋らないで。貴女のことは夫から聞きましたわ。彼の、ペチュニアの親戚の子供なのでしょう? 急にご両親が亡くなって……、しかもこんなことにまで巻き込まれてしまうなんて、大変でしたわね」


 そうヴィオレッタは続けるけれど、あたしの脳裏には、あたしがペチュニアの親戚の子供? 急に両親を亡くした? と疑問が浮かぶばかり。


 彼女に感づかれないよう僅かに視線をずらし、その傍らに居るペチュニアの顔を見れば、彼は瞬時に顔を背けた。けれど、ほんの瞬間的に見えた彼の表情には、焦りの色がにじみ出ていたのをあたしは見逃さなかった。


 嗚呼、彼女にあたしを孤児院から買い取ったのだと、引き取ったのだと、知られてはいけないのね。彼にとってその事実は不都合極まりない事柄なのね。


 だからあたしを、あの部屋に隠したのね。


 一を聞いて十を知るかのごとく瞬時にそう理解したあたしは、視線をヴィオレッタに戻し、彼女の言葉を待った。


「でも、もう安心してくださいな。あの部屋には厳重な封印魔術を掛けておきましたし、貴女を食べたあのバケモノも退治いたしましたから」


 「だから、安心していいのですよ」と、あたしの頭を撫でて、慈愛の笑みを浮かべる。やはり、彼女があたしをあそこから助け出してくれた人なのね。それでいて、あたしを飲み込み、「愛しきマリア」たちの記憶を延々と見せつけたバフォメット、もとい黒山羊頭の悪魔を、退治してくれたのね。


 ずっと彼の腹の内に居させられた状態のままだったら、あたしは一体どうなっていたことか。……今考えるとゾッとする。


 生きたいと。生きてこの部屋から出たいと。そう願ったあたしに、「我愛しきマリア」たちの記憶を見せつけ、あまつさえ、あたしを塗り潰そうとするだなんて。本当に、気の抜けない悪魔ね。


 幸いにもアレはヴィオレッタに退治されたらしいし、あの部屋も封印したらしいからこれ以上の身の危険があたしに降りかかることはなさそう。けれど、アレがそうやすやすと退治されるのかしら? という疑問もやはり脳裏をよぎってしまうの。


 「我愛しきマリア」を観察するためだけに世界を渡るあの悪魔が、この国の筆頭聖女ごときに、退治される?


 そんなわけ、ないじゃない。


 アレはどこかで息をひそめて、虎視眈々とあたしに付け入る隙を探している。あるいは、あたしのことなど見捨てて、別の世界に居る別の「我愛しきマリア」を探しに行っているに決まっているわ。後者であればどんなに肩の荷が下りることか。


 後者であれ、と祈り、願うに越したことではないけれど、今そんなことを考えたって仕方がない。あたしが今するべきことは、あたしをあの悪魔から救い出してくれた目の前の彼女に、礼を言うことのみ。


「……ありがとう、ございます。えっと……ヴィオレッタさん」


 子供らしく、もじもじと。それでいていじらしく。ヴィオレッタに「ありがとう」を伝えれば彼女は「ほっ、」と息を吐き、安堵の表情を浮かべた。けれど、その表情が長く続くことは無く、何かを決心したかのように彼女は真剣な眼差しをあたしに向けた。


「メィリアちゃん。急ではありますが、貴女に話しておきたい、大切なことがあるのです。本当は、貴女が元気になった頃が良いのでしょうが……機会を逃すと、伝えられないような気がしてしまって……」


 言葉が終盤になるに連れ消えいりそうになり、なおかつ彼女の眼差しも意志の弱いものへと変わってゆく。


 彼女の雰囲気から察するに、良い方の「大切な話」ではないのでしょう。それでも聞かねば何も解決しないということを理解しているあたしは、ヴィオレッタの白い手に自らの手を添え、「えっと、あたしは今で構わないので……教えてもらえます、か?」と訊ねた。


「……ッ。……まずは、貴女に起きていたことの説明からしましょう。……貴女があの部屋に連れて行かれたのは、わたくしのせいでもあります。というのも、ペチュニア曰く、『わたくしに貴女を引き取ったことを伝えていなかったから、つい咄嗟に隠してしまった』のだとことです。なので、わたくしが急にこの屋敷へ来さえしなければ、貴女はあの部屋に入れられることも無く、こんなことにもならなかったのです」

「そんなことは……、」

「いいえ、そうなのです。わたくしはそんなことで腹を立てるような女ではありません。ですが、彼がそういう誤った判断を下してしまうほど、わたくしの心が狭いように見えていたのは、わたくしの責任なのですから」


 「ね?」と念を押すようにして言い、あたしの頭を撫でさえしてくるヴィオレッタ。


 彼女は、間違っている。


 ペチュニアがヴィオレッタにあたしの存在を明かしておけばよかった。たったそれだけのことだし、ペチュニアが言っていなかったことが根本的な間違いなのだ。にもかかわらず、彼女はソレを認めていない。認めようと、していない。まるで、ペチュニアは何一つとして悪くないと考え、盲信してしまっているみたいに。……いいえ、きっと彼女は彼を名指しで糾弾したことによって、“ペチュニアに嫌われる”ことを恐れているの。


「それに、彼は貴女を閉じ込めてしまった後、後悔し、こっそりとではありましたけれど貴女を探しに行っていました。一方わたくしといえばこの屋敷での生活に浮かれ、貴女が閉じ込められている部屋の違和感さえ、気にも留めていませんでした。ええ。わたくしの過失、は如実ですわね」


 自分の罪ばかりを誇張するヴィオレッタに掛ける言葉は無く、あたしはただひたすら彼女の言葉を聞き続ける。


「あの部屋から漏れ出てきた魔力に気が付いたわたくしは、すぐさまその部屋へと赴きました。ですがわたくしがあの部屋に辿り着いた頃には既に、貴女はあの悪魔に、いいえ、バケモノに、取り込まれてしまっている状態でした」


 そもそもあの部屋から魔力を漏れ出させるために、あの悪魔はあたしを体内に取り込んだのだから、彼女があの部屋に辿り着いた時点であたしが悪魔に取り込まれていた状態は当然の事。けれど、その事実を知らない彼女は「わたくしがもっと早くにあの部屋へ行っていれば、いいえ、部屋の違和感に気付いていれば……」と後悔の言葉ばかりを繰り返してばかり。


 いい加減、その先にある「大切な話」を聞きたいあたしが「ヴィオレッタさん。それであたしは、どうなっていたの?」と、先を強請れば、彼女は「え、ええ……」と少しだけ口ごもった。


「貴女を取り込んでいたバケモノは、非常に強力な存在でした。けれどこの国筆頭の聖女でもあるわたくしの前では、子山羊も同然。すぐにその腸から貴女を助け出し、あのバケモノを退治いたしました」


 「ですが……」言葉を止めて深呼吸をした後、「ここからが本題の、大切な話です」と、ヴィオレッタは改めて切り出す。


「救い出した貴女は、バケモノの体内に取り込まれていたことによりひどい汚染状態で……何時息絶えてもおかしくはありませんでした。むしろ、貴女を目の前にして言うことではないのでしょうけれど、死んでいないことに、わたくしは驚きさえ覚えました。――なにせ貴女は人の姿さえ、留めていなかったのですから」


 あたしが、人の姿を留めていなかった……?


 改めて考えてみれば、それもそのはず。あたしはあの黒山羊に飲み込まれ、体内に取り込まれたのだ。あたし達人間が食べ物を食べるのと、同じようにして。しかもあの部屋の時間は外側の時間とは全く違う流れになっているから、彼女がどれほど迅速にあの部屋に来たとしても、あの部屋ではそれなりの時間が経ってしまっているの。そう、黒山羊の記憶を延々と見せられていたあたしが消化されてしまっていても、おかしくないほどに。


「わたくしの過失によって失われそうになっている貴女を、どうにかして生かすため、わたくしは貴女に一つの祝いを、与えました」

「祝い……?」

「はい。その祝いは、貴女の時を人間の形を保っていたその瞬間まで巻き戻し、止める。そんな魔法です。故に……貴女は、ずっとその姿のまま、成長することが出来ません。時が進めば、貴女はあのバケモノの腸に居た時のような、人の姿を留めていない状態になってしまうのですから」

「そう、なんですか……」


 衝撃的な事柄を教えられはしたけれど思いの他、驚きも、落胆も無かった。ただ、「嗚呼そうなのね」と思う程度。


 むしろ、「だから、黒山羊の中で見せられ続けていた『我愛しきマリア』たちの記録もさほど覚えておらず、あたしらしい思考を取り戻しているわけね」と、納得しさえしてしまう。


「メィリアが成長しないというのは、本当なのかヴィオレッタ?」


 今まで口を挟まずに居たペチュニアが、やや喰い気味にヴィオレッタにそう尋ねる。


「ええ。悲しく、悔しいことではありますが、メィリアちゃんはこの祝いを受けている限り決して成長は致しません。ですが必ず、その祝いが無くとも生きていける方法を探し出します。いえ、必ずその方法を見つけると、この世の節理に従いわたくしは貴女に『約束』しましょう」


 彼女は悲しみと、決意の入り混じった表情を浮かべながらあたしの手を固く握るが、そうではない。そうではないの。


 ペチュニアは悲観しているのではない。悔やんでいるのでもない。むしろ、喜んでいるの。貴女の目がペチュニアから背かれた瞬間から、彼は満面の笑みを浮かべ、目は爛々と輝いているのだから、間違いないことなの。嗚呼早く、振り向いて。ペチュニアの満面の笑みを、爛々と輝く双眸に、気が付いて!


 そう言いたい。言ってしまいたい。けれど、あたしにそんなことができるわけも無く、ただただ彼女の決意と、悲しみを受け入れることしかしなかった。




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