2-④



「――っ!」


 ばっ、と身を起こし、あたしは目覚めた。


 相変わらず居る場所は狭い部屋だったけれど、今までと違うのは黒い山羊頭の男があたしを膝枕していたということだった。


「あ、あの……」


 彼との会話もままならぬまま眠ってしまったうえ、膝枕までしてもらっていたなんて。申し訳なさでいっぱいになりながら彼に声を掛けようとすれば、彼の大きな手があたしの口元を抑えて言葉を堰き止めた。


「お前はこの蠱毒の勝者に相成った。故に、この部屋を観測していた我はこの世界の法則に従い、お前に我を召喚させた」


 魔術師によって召喚されねばこの世界に顕現できぬというのも、魔術の末よな。と、続けて彼はこぼしていたけれど、相変わらず彼の言葉はあたしに理解できそうにない。


「ン? 我が何を言っているのかわからない、という顔をしておるな……。ふむ、」


 彼は一つ頷いた後、あたしの口元を抑えていた手をするりと動かし、あたしの頭を軽く撫ではじめた。たったそれだけの事なのに、あたしは彼の手を何故だか懐かしく感じてしまったの。まぁ、誰かに頭を撫でられるのが久しぶりだから、そう錯覚してしまうだけなのかもしれないけれど。


 あたしの頭を撫でながら、何かを考え込むようにして黙り込んでしまった彼に、あたしは「あの……この部屋について、貴方は何か知っているの?」と訊ねてみた。もし彼が何も知らないのであればそれまでだし、知っているのなら、教えてもらうに越したことはない。何せ疑問は、口にしなければ解消されないのだから。


「嗚呼、ソコからお前は知らないのか」


 彼はそう言って改めて頷くと、あたしの頭を撫でる手を止めた。


「――そも、この部屋は当初のお前が考えていた通り『蠱毒』である。お前が住んでいた屋敷の一室然り、また別の屋敷の一室然り。ありとあらゆる空間、時間を跨いで繋がる『少女が集うべき部屋』の一つだ。故にこの箱の時間は、外界とは全く違う流れになっている」


「なら……、あたしがこの部屋に閉じ込められてから、外では一体どれだけの時間が経っているの?」


 もしかしたら、パパがこの部屋の扉を閉めたから数分、数秒も経っていないのかもしれないし、はたまた数十年たってしまっているのかもしれない。出られる確証はないけれど、それでもやはり気になってしまう。


「なに、ほんの二週間程度だ」


 二週間程度? たった、それだけしか経っていないというの? 数分、数秒よりかはずっとマシだけれど、それでも外の時間は二週間しか経っていない? あたしの体感時間ではそれ以上の日数が立っているというのに、たったそれだけだなんて!


「正確に言えば、十三日と十時間二十五分三秒、といったところか」


 そんな正確さなど、求めてはいない。


 けれど、二週間が経っているのに、あの変質的なパパが迎えに来ないのも変な話だと思う。彼なら一日と経たずあたしの様子を見に来そうな気もするのだけれど。


「外から、この部屋の扉を開けることは、出来るの?」

「常人には部屋の扉を開けることはおろか、この部屋を見つけることすら困難だろう。ただし、蠱毒の箱となったこの部屋の扉は管理者が外側から操作して開けるか、その管理者を超える力の魔術師が外側から開けるのであれば、開くがな。……勿論、分かっているとは思うが内側からは決して開かぬよ」


 嗚呼、これでパパが迎えに来てくれないことに納得がいったわ。


 あたしを隠したパパには魔術の才能は無かったから、この部屋を見つけられない。例え、見つけだせたとしても、扉が開かないのだから内側に居るあたしにしてみれば迎えに来てくれないのと同じこと。


 じゃあ、誰がこの部屋の扉を開けてくれるというのかしら?


 あの屋敷の中で、この部屋を見つけ出し、開けられる人間はあたしの知る限りでは居ない。一応、この部屋には管理者が居るらしいけれど、それらしき人もあたしの脳裏には浮かばない。


 いいえ。そもそも、この部屋の管理者とはいったい誰なの?


「それは藍の鉱石を埋め込んだ者だ。お前も、何度か会っているはずだが?」 


 どうやら口に出てしまっていたらしい。あたしの疑問に対しての答えを教えてくれた彼。その言葉によって浮かび上がったのは、あたしを孤児院から引き取る手続き等をしていた黒い彼。


「ワーズワースが、この部屋の管理者……?」

「彼だけではないぞ? もう一人、ティークと言うものこの部屋の管理者権限を持っている」


 まあ、アレの場合は持っている自覚も、縛られているという自覚も無いのだろうがな。


 言葉を続ける彼の声は右から左へと筒抜けさせ、あたしは彼から語られた事柄に驚愕する。


 そんな、まさか。彼等がこの部屋の管理者だというの?


 この屋敷の従者にしては若干自由めいていた節のある彼等ではあったけれど、彼らには魔術を扱うような才能は無かったはずだ。まぁ、それはあたしが一度たりとも彼らが魔術を使っているのを見たことがない故の決めつけであって、彼等が意図して使わないようにしていたとすれば、あたしには分かりっこない。


 あたしをいれた部屋を探すパパを、あの二人が手引きしたりしてはくれないのかしら? なんて思いもしたけれど、二週間経っても開けていない所を鑑みるに、その線に期待するのは止した方が良いかもしれないわね。


「はぁ……」


 黒山羊頭の彼に膝枕をされながらため息を吐き、あたしは別の疑問点を探してみる。


 今はこの部屋が何であるか、等を答えてもらったから、次は……そうね。あたしをいま膝枕するこの彼は、一体何のためにこんな部屋へやって来たの? という疑問かしら。


「ねぇ、バフォメットさん。別の質問をしても良いかしら?」

「構わんが。我名に敬称は付けるな。もしくは、黒山羊、あるいは閣下と呼ぶがよい」

「そう、分かったわ。なら、改めて質問するわね……。バフォメット、貴方はどうしてこの部屋にやって来たの? 貴方はあたしに『お前に我を召喚させた』だなんて言っていたけれど、あたしは貴方の事を召喚した覚えがないわ?」

「ソレは、我が差し入れたあのタロットカードをお前が読んだからに他ならない。アレには我をこの次元に顕現させるための召喚魔法と、術者がソレに記された表記を読めば自ずと我を召喚できるようにしておいたからな」


 ただ、その方法を取ってしても、一介の魔術師に我を召喚することは出来ないが。


 そう補足した彼は指をパチンと鳴らして一枚のカードを取り出し、あたしに見せた。


 大きな巻角が特徴的な黒い山羊の頭をした男の人。その背後には黒くて大きな蝙蝠羽。天の位置にはⅩⅤの数字に、下部には悪魔を示す言葉。彼が見せるそのカードは、紛うことなくあたしが一度手にしていたタロットカードだった。


 まじまじとそれに見入っている最中、彼はあたしの顔に山羊頭の顔を近付けてくる。


「な、なに?」


 あごひげ部分の綺麗な黒い毛並みがくすぐったく、身を捩ってよけにかかるが彼の手がソレを許さなかった。


 顔に吹きかかる生臭い吐息に、垣間見えるぎざぎざした歯。それになにより間近で見る彼の瞳――山吹色の光彩に、水平に伸びる長円の瞳孔が、少しだけ恐ろしい。


「我を召喚できるのは、我と縁を深く結ぶ、我愛しきマリアの魂を持った者のみ」


 ずり、とあたしに顔を近づけていた彼は、そのままあたしに頬ずりをした。


 思いのほか彼の毛並みは良く、気持ちよささえ湧いて出るが、たっぷりと蓄えられているあごひげはやはりくすぐったい。


「我を召喚し、この次元に顕現せしめたお前は、紛うことなく我愛しきマリアの魂を得た者、否、我愛しきマリアだ」


 嗚呼、この時を、どれほど待ちわびたことか。懐かしきお前の匂い、お前の柔肉、お前の声、お前の魂。嗚呼、嗚呼。しばらくの間は、死んでくれるな。


 ぎゅう、と痛いほど抱きしめにかかってくるバフォメット。一応呼吸は出来ているから別段抵抗するまでもないと判断し、無抵抗を決めたあたしではあったけれど、彼が発した「我愛しきマリア」の言葉が引っかかっていた。


 確かに、あたしの名前メィリアで、文字の並びがMARIAではある。けれど呼び方はマリアではなく、メィリアだ。念のため、「あたしはメィリアだけれど、貴方のマリア……なの?」とあたしを抱きしめ、頬ずりする彼に訊ねてみれば「勿論」と即答された。やっぱりあたしは、彼の「我愛しきマリア」であるらしい。


「そも、マリアの選定基準は簡単だ。蠱毒の内で、マリアと名のつく少女が最後まで生き残っていれば、ソレが我愛しきマリアである」


 まぁ、そんな運よくマリアという名の少女が蠱毒と化した部屋に入れられ、最後まで生き残るだなんてことはそうそうないと思うし、そもそも蠱毒だってそう在りはしないと思う。だから、その確率でいうならば彼の言う「我愛しきマリア」に該当する子はそう居ないと思う。


 けれど――結局のところそれは別に、あたしでなくとも良かったのではないかしら?


 たまたまあたしがメィリアという名前で、たまたま蠱毒の部屋と繋がる扉が屋敷に在って、たまたまその部屋に入れられて、たまたま生き残ってしまったに他ならない。


 しかも今回の場合、この部屋に居た少女たちはみな、死んでいたも同然の状態だった。ならば襲われて絶命する。という結末が無い以上、生き残ることが確定しているも同然。もし、我愛しきマリアとやらを選定するのに彼が飽き、あたしを勝者にしたいがために行ったことであるならば、それはいささか強引で、姑息なのではないかしら?


「無論、お前に至るまで、お前と同じ状態で何度も繰り返し、彼女たちを試した。だがお前以外の皆、蠱毒という現実に耐え切れず発狂し、心を失ったり、自死したりしてばかりだった。誰一人として、外へ出ようと試み、生き残ろうと躍起になろうとする者はいなかった。だがお前は違う。蠱毒の内を恐れたのは一時のみで、それ以降は恐れなくなった。そしてあろうことかお前はこの蠱毒に適応、順応し、この蠱毒で死を選んだ彼女たちと共鳴し、共存した。最終的には彼女たちを食してしまったが、それでこそ我愛しきマリアに相応しい」


 それでこそ、我愛しきマリアに相応しい?


 耳元で発された彼の言葉が受け止めきれず、あたしは頭の中でその言葉を何度も繰り返す。


 彼女たちを食すことが、相応しい?


 それでいて、その行いが「我愛しきマリア」に相応しい?


 彼の、バフォメットの、黒山羊の、化物の。言っていることが、理解できない。


 この部屋に閉じ込められ、唯一の食料が無くなってしまった以上、この部屋の中で生き延びるにはこの部屋に居る彼女たちの肉を食べ、血をすする以外の方法が無かった。勿論、生き延びるためとはいえ、道徳的にも、なにより自分の精神的にも悪い行いをしたという自覚はある。むしろ自覚がありすぎて、意識的に考えないようにしていたほど。


 にもかかわらず、その忌まわしき行為が相応しい?


 あたしを抱きしめ、頬ずりを続ける化物の言っていることがやはり分からない。


「お前が気に病む必要はない。我愛しきマリアもまた蠱毒に堕ちた際、生き延びるため“そう”したのだ。故に、我愛しきマリアの魂を持つお前もまた、そうすることは当然なのだ」


 だから何一つ、その御心を痛めてくれるな。そして自らを呪うな。呪うなら、そうまでしてお前を選定したいと望んだ我を、呪え。


 そう言いながら改めてあたしを抱き直し、自らの首筋にあたしの顔が当たるようにした彼は、言葉を続ける。


「生きることに貪欲で、生きるためにならどんな禁忌も犯す。そこに快楽も、愉悦もありはしない。ただただ、生存するということにのみ貪欲な少女。それが、我愛しきマリアの内側だ。お前と、何一つ変わりはしない」


 嗚呼。その「我愛しきマリア」という彼女も、あたしと同じように、生き延びるために、仕方なく蠱毒の物を食べたのね。ならそれと同等の行いをしたのは当然のことね――だなんて、あたしが思うとでも、彼は思っているのかしら?


 そもそも、あたしはその行為を疎んじ、罪だと自責しはするけれど、決してその行いが間違っていたとは思っていない。出来ることなら忘れたいし、気にしたくはない。けれど、それは生きるためにした行いであり、そこには後悔も、無念もない。


 あたしの勝手な判断ではあるけれど、おそらくそれは、彼の言う「我愛しきマリア」本人も同じだったに違いないでしょう。


 生きるためにならどんなことだってする。だって、死にたくないから。


 だから何としてでも生きる。生きるためにしたことなのだから、後悔はしない。勿論、呪いだってしない。


 後悔する瞬間は、絶望的な死が訪れたその一時だけ。しかも、今までしてきたことを悔やむのではなく、嗚呼もっと貪欲であればよかったと悔やむの。


 にもかかわらず、あたしを抱きしめる彼は、その辺りを分っていないのだ。


 たくさんの女の子たちを蠱毒の箱に入れて、我愛しきマリアを選定しているのに。その彼女に「愛しき」なんて言葉を付けて呼んでいるほどなのに。彼はその「マリア」を理解していない。


 そんな彼に訂正の言葉を入れてやるつもりのないあたしは、彼の首筋に顔を埋めて無言を貫き通した。


 だってあたしはその愛しきマリア本人ではないもの。例え彼女の魂を持っていたとしても、あたしは彼女自身ではない。だから、その程度のあたしが言ったところで彼は理解しないでしょう。世界を、次元を跨いででも「我愛しきマリア」を探そうとする執念深い彼のことだから、なおさらに。


「そんな我愛しきマリアは、蠱毒の勝者となり、この世を侵す毒に相成った。そして、それはお前も同じ。蠱毒の勝者となったお前は、この世を侵す毒と成る」


 無言を貫き、彼の言葉を聞き流していれば、聞き捨てならない発言が耳に飛び込んできた。


 この世を侵す毒? ソレは何? もしかしてソレは、自分の周りに居る人たちを不幸にしたり、病気にさせたりするような代物なのかしら?


 不幸に陥らせたいと願う人はいないし、あたしにとっては無用の長物。ただ、不幸を振りまいていることが露見し、その不幸の被害者たちから恨まれ、命を狙われたりするようになるのであればそれは無用の長物を通り越した、ただのゴミでしかない。


「それは、あたしのせいで周りが不幸になる、ということかしら?」


 浮かんだ疑問を口にすれば、彼は「案ずるな。毒となったからといって誘発的に周りが毒され、不幸になる……ということはない。ただ、世界を蝕む力を身に宿したというだけだ。お前がそうすることを決意し、実行に移しさえしなければ、今までと何一つとして変わらぬ」と言い、あたしを抱きしめていた腕を解き、自らの身体からほんの少しだけあたしを離した。


「――そうなることを加味しても尚、お前はこの蠱毒から出たいと我に望むか?」

「ええ、望むわ」


 のうのうと平凡に生きていれば、その毒とやらも発揮されず、あたしの肉体と共に朽ちるというのなら、蠱毒から出たい。いいえ、例え周りがあたしのせいで不幸になっても、その不幸があたしに跳ね返ってくるとしても、あたしは生きて此処から出たいのだ。


 今を生きなければ、未来は決して訪れないのだから。


「あたしはこの蠱毒から出て、生きたいわ」


 黒い艶やかな体毛に覆われた彼の顔をまっすぐと見据え、あたしがそう言えば「フム」とその黒山羊頭は頷いた。


「よかろう。ならばその願い、お前に召喚され、この世界に顕現した悪魔『バフォメット』が、叶えよう」


 「これで契約は相成ったな」と続けた彼はあたしの両脇に手を差し入れ、持ち上げる。


「この蠱毒は内側からは開くことはなく、外側から開けてもらうしかない。だが、開くことはなくとも、ある程度の魔力濃度になれば部屋が耐え切れず、その魔力を適正地点に漏らすことは既に別の箱で観測済みだ。――嗚呼。我の言いたいことが分かるか? 我愛しきマリアよ」


 地から離れた両足を、ぶらりぶらりと動かしながら彼の言葉を咀嚼してみる。


「えっと……この部屋は、つまるところ、小さな隙間のある箱のようなものなのよね? そしてそれに綿を……、部屋に魔力を充満させる。箱の中に納まらなかった綿、魔力は外側である適正地点……屋敷の廊下にその魔力を漏らし、ソレを感知した誰かに部屋を開けてもらう……。という算段かしら?」

「その通りだ」


 満足そうに眼を輝かせ「やはり此度のマリアも聡明である」と一人ごちる彼。本人を目の前にしていながら、他のマリアと比べるのはどうかと思うわ。


 ほんの少しの苛立ちを込めて、つん、と自由になっている手で彼の鼻先をつつく。そして続けざまに「でも、魔力を感知できる人間が居なければ、どうにもならないのではない?」と加えて問いかけてみた。


 部屋についての質問をしていた際にも出ていたことであるのだけれど、この屋敷には魔術が使えるような人は居ない。たとえ居たとしてもそれはこの部屋の、この蠱毒の管理人であるワーズワースやティーク程度のはずだわ。


「心配には及ばない。魔力を感知する人間ならば、お前がこの部屋に入れられてすぐに屋敷へと来ているからな。嗚呼、むしろその人間のせいで、お前がこの部屋に入れられたようなものなのだが」


 屋敷へ誰かが来ている? そして、その人のせいであたしはこんな部屋に入れられたの?


 そんなこと、知らされていない。初耳だ。そして、もしそれが本当であるならば、如何してあたしを探しに来てくれないの? まぁ、でも魔力が漏れていない現時点の状態であれば、例え異を覚えたとしてもわざわざ此処を訪れたりもしないでしょう。


「そも、アレはお前の存在を知らぬ。ただ、愛しい男と暮らすためだけにこの屋敷へやって来た者だ。そして今はその喜びに浸っているが故に、屋敷の端にある異に気付いていない。目を背けているのではないぞ? 喜びで麻痺した頭が、それを感知しておらんのだ」


 例え高尚で有能な聖女でも、見えていなければ無いのと同じ。愛は盲目、とはよく言ったものよな。


 げらげらと、笑っているかのように山羊頭の彼が身を揺らせば、彼に抱き上げられているあたしもまた揺れる。


 嗚呼、彼は嘲り笑っている。


 山羊頭のせいで彼の表情そのものは全く読めないけれど、それでも声色や微妙な口の動きなどから、彼がその対象に向かって嘲りの笑みを浮かべているのが分かってしまう。


「そしてその方法は、そうだな……純粋で純情な聖女が厭いそうな方法が望ましいだろう。聖女でありながら、恋に現を抜かした自分を呪い、我愛しきマリアを祝え」


 彼はそう言うや否や、口を大きく開けた。そう、あたしが入ってしまいそうになるほど大きく口を開け――その中にあたしを放り込んだの。


「えっ?」


 口腔内で抵抗する暇も、喉元でもがく暇も与えられぬまま、あたしは彼の喉を滑り落ち、嚥下された。勿論落ちたソコは肉の壁。光の入らぬ場所だから視界は黒く塗りつぶされているけれど、触れる柔らかな肉の感触と粘液が否が応でも“そう”であると知らしめてくる。


「かつての因果により、我と相反する魔力を持つお前を我体内で混ぜることにより、互いの魔力量を爆発的に引き上げよう。ソレまでの間、自らの在り方を学び直しているが良い」


 外側からバフォメットの低い声が響き、それと同時に肉の壁がどろりととけて、あたしに染み入ってくる。


 刹那、流れ込んできたのは少女たちの姿。


 冷たい雨に打たれながら咆哮し、泣き笑う少女。


 笑みながら、怒りを振りまき続ける真っ赤な少女。


 静謐の中、首だけになりながらも微笑を浮かべ、祈りを捧げる少女。


 暗い舞台の上、嬉々として一人踊り続ける狂った少女。


 彼女たち自身ではない別の者からの視点による彼女たちの姿は、あたしを飲み込んだ黒山羊の言う「我愛しきマリア」たちとの思い出なのでしょう。けれど彼は「愛しき」なんて言葉を付けているにもかかわらず、彼女たちを、まるで観察対象のように見てきたのね。


 泣き笑う少女にも、怒り続ける少女にも、首だけになってしまった少女にも、壊れてしまった少女にも、彼は救いを差し伸べてはいなかった。与え続けたのは、彼女との間における共依存をあおるような言葉や、行動ばかり。


 彼が居れば、何も心配することはない。彼の言葉に唆され、洗脳され。そう思うに至ってしまった彼女たちはみな、凄惨な最期を迎えた。そして、それを見届けた視点の主である黒山羊はあまりにもあっさりするほどその世界を離れ、新たなあたしを探しにいく。


 悠久に等しい時間の中、延々とソレを繰り返す黒山羊。あたしはその記憶を無理やり見せつけさせられながら、ただただ冷静に思うのだ。


 彼女たちの人生を狂わせ、自らの庇護欲をくすぐるような子に育て上げ、その最期を見届ける。そんなことばかりを繰り返して、一体何になるというのかしら? そして、そんなことを続けていて彼は楽しいのかしら? 空しくなったり、後悔したり、しないのかしら? と。


 でもそんな思いも、すぐに消えてなくなる。何故なら見せつけられ続けるこの記憶の中が、とても懐かしく、それでいてとても気持ちが良いから覚えていられないのだ。今さっきまで考えていたことも、あたしが何でこんな記憶を見ているのかも、すべて霧散する。


 そうやってそれらはじわじわとあたしを蝕み、今までのあたしを塗り潰していく。


 ――嗚呼。でも、いままでのあたしって、一体どんな風だったかしら?


 視界に映る新たなマリアが、これからどんな道を歩み、最期を迎えるのか。この視点の主である黒山羊と共に味わっていれば、不意に世界に亀裂が入り、そこから紫色のきらきらが二つ、この世界を覗き込んできた。



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