2-③
ゆらゆらと定まりなく揺れていた景色が一気に黒塗りになり、あたしを閉じ込める。
嗚呼、次は此処なのね。
黒の側面に「嫌な夢ね」と言葉を投げつけながら、あたしは穏やかで、和やかな、されど変質的な日々が終わった日のことを思い出し、そして今まるで起きているかのように“体感”する。
そう、アレは確か空一面に、どんよりとした雲がかかっていた日の午後。部屋で勉強をしていたあたしのところへ、パパが慌ててやって来たの。そして何の説明もされぬまま手を強く引かれ、部屋を連れ出された。
屋敷中の人たちの騒々しい声が聞こえてくる中で、一体何が起きたの? という疑問しか抱くことしかできないあたしをよそに、あたしを連れ出したパパは、屋敷の奥にある、かび臭くて埃っぽい小部屋にあたしを放り込んだ。
今まで宛がわれていた清潔な部屋とは全く違う部屋。外と繋がる窓は見当たらず、空気もとても淀んでいる。それに何故だかとても寒くて、気味が悪い。何時もなら近くに感じられる精霊や妖精の気配もない。むしろ、何か別のものがいるような気がしてならない。
「パ、パパ?」
廊下に居るパパが、投げ捨てるようにパンや水の入ったバスケットと、魔力で灯るランタンを部屋に入れた。
「パパ? どうしたの? どうして、あたしを此処に……?」
そう問いかけるも、彼の表情には焦りの色しか浮かんでいない。ただ、あたしを此処に隠すことしか今は考えられない。そんな風に見て取れた。
「メィリア。君は少しこの部屋に隠れていてほしい。必ず、出してやるから。それまで……ほんの少しの間、我慢してくれ」
彼はそう言うとすぐに扉を閉めてしまう。そして扉越しに聞こえていたパパの足音が遠のき、終に聞こえなくなってしまう。
屋敷内の慌ただしさも、この部屋の中には何一つ入ってこない。
一体何が起きたの?
どうしてあたしはこんな場所に隠れていなくてはいけないの?
ぐるぐると頭の中で渦巻く疑問。だけど、あたしは今更ながらにこの部屋の異様さに気付いた。
真っ暗なのだ、此処は。光の一つも無い、真っ暗な部屋なのだ。
暗闇の中、先ほどパパが置いていった魔力で灯るランタンを捜しだし、明かりを灯せば、そこには――
「っあ、きゃあああああああああっ!」
女の子がいた。
たくさんの女の子が床に横たわり、折り重なっていた。
かわいい服を着た女の子。みすぼらしい服を着た女の子。何も着ていない女の子。髪の長い女の子。髪の短い女の子。白い肌の女の子。日焼けをした女の子。青い目の、赤い目の、緑の目の、紫の目の、白い髪の、黒い髪の、金の髪の、茶色の髪の、女の子。女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子。
そのどれもに生気は無いけれど、死体特有の腐臭も感じられない。そもそもこの部屋に入った時点では、彼女たちの姿はなかったはずだった。そうでなければこんな場所に置いていかれまいと、あたしはパパにすがったはずだから。
たくさんの少女。あたしと同じぐらい、あるいは、もう少し幼かったり、大人びていたり。歳はみんなさまざまだったけれど、一律して「少女」という括りに当て嵌る子ばかり。
がくがくと震え、崩れ落ちそうになる両足を必死に奮い立たせ、扉に手を伸ばすが開きなどしない。声を上げて叫んでも、力強く叩いても一向に誰も来てくれない。
「っ、なんで! どうして開けてくれないの! どうして誰も来てくれないの!」
「ううう、」と涙と鼻水と嗚咽を零しながら目線を下に下ろせば、床に転がる少女の一人と目が合った。
「ひっ!」
喉のひきつる音が、意図せずに漏れる。がくがくと震える両足もそろそろ限界に近いのか、今にも腰を床に下ろしてしまいそう。
流石に、床に転がる彼女たちの傍に腰を落ち着けたくないあたしは、足元に在ったバスケットを掴むとわき目も振らず、この部屋唯一の家具であるベッドまで駆け、倒れこんだ。
清潔とは言い難いシーツの上に倒れこむのは嫌だったけれど、床を埋め尽くしている彼女たちに埋もれるよりかはずっとマシ。
「っ、なんでこんな部屋に!」
嗚呼、むしろ何でこんなことに!
パパは、いいえ、ペチュニアはきっと普通の部屋だと思ってあたしを此処に隠したに違いないわ。けれど、此処は普通の部屋ではなかった。魔術の研究に熱心だった前の持ち主が作った魔法の部屋なのかは分からないけれど、碌な使い方をされた部屋ではないことぐらい、あたしにだって分かる。
しかもその使い方は、まるで、
「……蠱毒じゃないの」
ぽつりと零したそれは、あたしの育った孤児院でほんの少しだけ流行っていた遊び。
あたしは遠巻きに眺めている程度だったけれど、それは、たくさんの虫を箱に入れ共食いをさせるという、子供ながらに狂気じみた遊びだった。むしろ子供だからこそ、無邪気に残酷なことをやっていたのだと思う。勿論、その残酷性はすぐに年上の子達に咎められ、止めさせられ、みんな忘れてしまった。
そう、忘れてしまったの。
いつか掘り起こすことを前提として、土の中に隠された蠱毒の箱を。箱の中に無理やり閉じ込められた虫たちのことを、みんな忘れてしまったの。
――なら、あたしも忘れられて、蠱毒の虫たちみたいに、なるの?
もし、パパも、誰も来ないまま、この部屋に閉じ込められたままだったら、あたしも彼女たちの一人になるの? だらしなく四肢を放り投げて、生きてはいないけれど、死んでもいない。そんな状態になって、ずっとこの部屋に閉じ込め続けられるの?
そんなのは、嫌だった。こんな場所に閉じ込め続けられるのも、彼女たちと一緒に居続けるのも、嫌だった。
「だ、大丈夫よ……。きっとパパが、すぐに出してくれるわ」
彼はあたしに言ったのだ。「ほんの少しの間、我慢してくれ」と。パパの言葉が本当だというのなら、ほんの少し待てば、出してもらえる。パパは一度だって約束を破ったことはないから、きっと今日だってすぐ出してくれるはずだわ。
それになによりあの人が、あたしを忘れるはずがないじゃない。
あたしを金で買い、自ら裸になるよう指示して、眺めて、ゆっくりと自分の手で服を着せる。そんな人があたしを忘れるはず、ないのよ。
自分にそう言い聞かせるようにしながらも、やはりこの部屋に居る彼女たちの視線がどうしても気になってしまうあたしは、固く目を閉じた。けれど、次は彼女たちの囁き声が聞こえてくるような気がしてしまう。
きっと実際には見てもいなければ、囁きもしていないのでしょうけれども、気にしないようにすればするほど、そう感じてしまうの。
この部屋唯一の食料が入ったバスケットとランタンを掴み、あたしは視界も、音も断絶するようにシーツにくるまった。
きっとすぐにパパがこの部屋から連れ出してくれるに違いないわ。いいえ、すぐに出してくれるに決まっているわ。あの人が、長時間あたしを放っておくわけがないし、忘れるだなんてことも、あり得るはずがないんだから。
あり得るはずがない、あり得てはいけない、すぐに出してくれる。
そうやって同じことばかりを考え、何度も何度も自分に言い聞かせているうちに寝入ってしまったらしいあたしを起こしたのは、身体に乗る、ずっしりとした重みだった。
「っ!」
くるまっていたシーツを自らはねのけ、部屋の中を見渡すが、あたしの身体に乗っていたと思しき少女はいなかった。むしろ、誰一人として、動いた様子もなかった。
そう。此処に生者は、あたししかいない。
この部屋にいる彼女たちは、死んでもいなければ、生きてもいない。
床に折り重なり、無造作に転がる彼女たちはまるで人形。あるいは、死に差し掛かった瞬間でその時を止められているような子ばかり。
傍に在るバスケットの中を探り、そこからパンを取り出したあたしは、ぼふん、と身体をベッドに横たわらせ、おもむろにそのパンを食べ始めた。不作法なことはわかっているけれど、誰も見ていない此処でそんなお上品なことをしたって何の得にもなりやしない。むしろ、自由な体制で食べた方が憂鬱な気分にならなくて済むし、なにより食べる物が素っ気ない味だったとしても多少は美味しく感じられるかもしれないじゃない。
乾燥しきったパンをもそもそと食べながら、床に転がる彼女たちの様子を引き続き窺ってみる。ベッドの上にある魔力で灯るランタンは未だ明るく、その柔らかな光がやけになまめかしく彼女たちを照らし、彼女たちをより一層艶めかせている。
陶磁器のように滑らかな彼女たちの顔に在るぷっくりとした唇は、より一層淡く色めくと共にその形に陰影をつけ、無造作に散らされながらも柔らかさを失ってはいない髪はやわく光る。
ただ一点、瞳だけはガラス玉みたいに虚ろで、生気が宿っていない。
そんな彼女たちを見れば見るほど、みんな可愛らしい顔かたちをしているな、とあたしは思ってしまったの。
きっと、こんな所にさえ居なければ、みんなかわいい女の子に違いない。
もし、彼女たちの身嗜みを整えたのなら、彼女たちは本来にほど近い愛らしさを取り戻し、あたしもまた彼女たちを不気味に思ったりすることも無くなるのではないかしら?
ふつ、と湧いたその出来心は、気が触れてしまったことの表れなのか、あるいは正気を保つための作用なのか。はたまた、そのどちらでもないのか。あたしには測りかねるけれど、一つだけ自覚していることはあった。
それは、この出来心の発端が「あたし自身が平穏に、この部屋で過ごすため」に他ならないこと。
あたしは、彼女たちの為ではなく、あたしの為だけに、彼女たちの手入れをしようと思ったのだ。
パパがあたしを迎えに来てくれるまで、どれだけ時間があるのかは分からない。ただ、やれるところまでやってみよう、とあたしは発起し、その身を起こして立ち上がった
恐る恐る触れた彼女たちの肌は、とても人間らしい柔らかなものだった。そして、見た目通りとても張りがあって、滑らか。この部屋に閉じ込められてから、そう時間が経っていないようにさえ、思ってしまう。まぁ、そもそも彼女たちが一体何時入れられたのかは、あたし自身知らないのだけれど。
「よい、しょっと」
手始めに触れた彼女を抱き上げ、壁沿いに座らせてみる。うん。床に転がっているより、壁に背を預けて座っている方が、ずっと“らしい”。それに合わせて彼女の髪や服も整えてやれば、より一層彼女“らしさ”が出て、不気味さも激減した。
そうやって、しばらくの間部屋に在る彼女たちを壁沿いに並べ、身嗜みを整えてみたけれど、その進み具合は芳しくない。もとより彼女たちの体格とあたしの体格は同じぐらいだし、何よりあたし自身が幼いから、進み難いのは仕方のないことではあるのだけれど。
ただその中に苦痛や、辟易は無かった。むしろ、大きなお人形遊びだと思えば、楽しささえ出てくるほど。
引き続き扉部分を除いた壁際に彼女たちを並べ、それでも余った子たちは膝枕の体勢にさせてみたり、互いにもたれかかるような形にしてみたりして、どうにか体裁を整える。服を着ていない子たちには厚着をしている子から上着などを拝借して着せた。
納得のいく配置には未だ遠いものの、なんとかそれらしい所まで整えることのできたあたしは、一旦ベッドに倒れこむ。
嗚呼、この部屋に閉じ込められて何時間――あるいは何日が経ったのかしら? 時計も無い此処では知りようのないことだけれど、それでもかなりの時間が経ったのではないかしら?
知りようも、確認のしようもないこの部屋で、そんなことを考えるのは的確ではないとは分かっていながらも、何時パパがあたしを迎えに来てくれるか分からない今では、どうしても考えてしまうの。
シーツに埋もれさせていた顔を横に向け、きれいに並べられた彼女たちを眺める。
うん。やっぱり無造作に転がしておくよりずっと良いわね。乱雑に、無造作に、情緒のかけらも無く転がされるより、ずっと良いわ。
きれいに並べられた彼女たちは、町の服飾店に並ぶ人形にほど近く、最初見た時のような不気味さは微塵も感じられない。まあ、相変わらず目の虚ろさだけはどうにもならなかったのだけれど。
「これで櫛や化粧道具もあれば、もっとよかったんだけどね」
無い物ねだりをしても、しょうがない。何時かこの部屋を出た時にでも持ってくるべきかしら? それとも、こんな場所に閉じ込め続けるのもなんだか悪い気がするから、彼女たちも出してあげるべきかしら?
ベッドから降り、一人の少女にあたしは手を差し伸べる。
「とっても、たのしみね!」
返事をしてくれることのない彼女の頬を撫で、そう呟きながらあたしは笑う。この部屋に閉じ込められた当初よりも、ずっと心の持ちようが楽になっていて、むしろ気分がいいぐらい。
あたしの指先がなぞるのは、やわらかな彼女の頬肉。弾力のある唇からは血の気は未だ損なわれておらず、髪に隠される耳の感触はもっちりとした柔肉に包まれた、歯ごたえのある軟骨部分のよう。
唐突にあたしのおなかが鳴り、それと同じくして喉も鳴る。
「お腹が、空いたわね」
何か食べ物を、と思ったけれど既にパンや水は無い。
ならば、あたしは何を食べるべきなのかしら?
何を? なんて、不躾ね。そんなの、決まっているじゃない。
にこにこ、と自分でも奇妙だと思ってしまうほど不釣り合いな満面の笑みを浮かべ、あたしは目の前に居る彼女の肉に――。
そこから先は、正直思い出したくもない記憶だ。
そうでもしなければ生き残れなかった。というよりも、そうすることを強いられた、という方が今は正しいと思うけれど、当時のあたしにはそんなこと分かりっこない。だから、少しでもその罪悪感や、嫌悪感から逃げようと頭のネジを自覚しないままいくつか外してしまったの。
まぁ、今更弁明したところで夢の中では何にもならないのだけれど。
幾度か頭を振って当時の記憶を抹消し、改めて視界の先を確認すれば、先程まで綺麗に並べられていたはずの彼女たちが、一人として居ない状態だった。
「……この部屋に閉じ込められてから、何日が経ったのかしら?」
夢の中のあたしはそう呟き、ベッドの上でごろりと寝返りを打つ。
現状として、彼女たちも居なくなってしまっているから、かなりの日数がたってしまっているのは間違いないと思う。このままでは、食料に困って飢え死にしてしまうわ。
一体何時になったらパパは迎えに来てくれるのかしら?
嗚呼、でも今のあたしの姿を見たら、パパはびっくりして腰を抜かしてしまうかしら?
鏡が無いから自分が今、一体どんな姿になってしまっているかは分からない。口元を拭えば何時だって赤い何かが着いていたし、着ている服は最早赤黒く染まってしまっている。まぁ、排泄物や吐瀉物、その他の要らない部分などと一緒に要らなさそうな服も魔術で燃やしてしまったから数は少ないけれど、代わりの服はまだいくつかあるから、服に関してだけはどうにかなると思う。
ただ、そんなあたしが、パパが望む「あたし」であるかまでは、分からはない。多少面影が残っていればきっとパパが望む「あたし」でありそうな気もするけれど、それはパパが決めることだから、此処であたしが考えたってどうにもならないの。
「ふふっ、ふふふっ」
自ずと口から漏れ出た音は、今までのあたしらしくない不快な笑い声。でも、それは間違いなくあたしの喉を震わせ、唇から漏れ出ていた。
嗚呼、この声が、この音が、あたしをどんどんおかしくしていく。
こんな状況では、後戻りできないぐらい壊れてしまうのは道理なのかもしれない。むしろ、精神的にも発達しているとは言い難い子供の身で、此処まで保っていたことの方が特異なことなのかもしれない。
ねえ、パパ。はやく、あたしを迎えに来てよ。じゃないと、あたしはあたしを保てなくなってしまいそうだから、ねえ、はやく。あたしを、むかえにきて。
「ッ! 早く此処から出してよッ!」
焦りと苛立ち、悲しさと孤独がないまぜになったまま、そう大きく叫べば、なんだか頭がすごくすっきりした。もしかしたら定期的に大きな声で叫んでおいた方が、あたしの心を健やかに保つにはいいのかもしれないわ。
まぁ、どうあがいてもこの部屋からは出ることが出来ないのだけれど。
ふぅ、と一つ息を吐き、すっきりとした頭であたしは、自分が今置かれている現状を冷静に考えてみることにした。
焦りや苛立ちが貯まっているあたしは、パパが迎えに来てくれる。なんて必死に思い込もうとしているけれど、あたしはこの扉が、この部屋が、普通の事では開かないということを知っていた。
というのもパパには「隠れていてほしい」なんて言われてはいたけれど、一度たりとも様子を見に来てくれない彼の言葉を守るいわれのないあたしは、実のところ、何度か廊下と通じている扉を開けようと繰り返していたの。それこそ屋敷に来てから学んだことを応用して、扉を魔術で燃やしてみたり、壁ごと扉を破壊してみたり。けれど、そのどちらも効果がなかった。
勿論、原始的な方法として扉を叩いたり、大声で叫んだりもしてみたけれど、誰一人として此処には来てくれなかったし、何より音が一つも反響しなかったのが、怖かった。
まるで、何かしらの魔術によって、この部屋の空間がどこか別のところに隔離されているみたいにさえ感じた。いいえ、きっと“みたいにさえ感じた”のではなく、隔離されているに違いないわ。
魔術に関しての知識は本で読んだ程度のものしかないから、漠然とそう判断してしまうのだけれど、本当にその判断通りだとしたらあたしはこの部屋から出ることが出来ない。
誰かが、何かのはずみでこの部屋の扉を開けてくれない限りは、絶対に。
ねえ。それならあたしは、いきるために、つぎ、なにをたべればいいの?
自問する声が脳裏に響き、あたしは、いけない、とその自問を即座に捨てた。これ以上あたしの心がおかしくなってしまう前に、現状を、どうにかしなくては。
とはいってもこの部屋に、この部屋から出るための方法が記されているわけも無く、途方に暮れるしかない。まぁ、余程の間抜けでない限り、中に入れた蟲が勝手に逃げるような仕様の箱を使う蠱毒の製作者はいないでしょうから、当然の話ではあるのだけれど。
物理的にも身体的にも、八方塞がりの現状を諦めるようにあたしは目を閉じ、ごろり、と再び寝返りを打つ。
ごろごろ、ごろごろ、とベッドの上で頻繁に寝返りを打ち、転がっていれば、不意に指先に何かが触れた。
「……?」
閉じていた目を開き、触れた指の先を見てみれば、そこには今までベッドの上には勿論、部屋にも無かったはずのカードが一枚、存在していた。
「……タロット、カード?」
魔術の本で何度か目にしたことはあったけれど、現物を見たことのなかったあたしはそれを手に取り、じっくりと眺めてみる。そこには、大きな巻角が特徴的な黒い山羊の頭をした男と思しき人が一人。そして、その背後には黒くて大きな蝙蝠羽。天の位置にはⅩⅤの数字が記されている。
「The Devil……?」
下部に記されていた文字は悪魔を示す言葉。そう、それはただの言葉。にもかかわらずその言葉を発した瞬間、あたしを中心にして渦を巻くように室内に暴風が走り、あたしは持っていたそのカードを手放してしまう。
「っ!」
顔を下にし、ベッドの上で身を小さくしてその暴風をやりすごすが、一体何が起きているのか、微塵も理解できなかった。だってあたしはただタロットカードに書かれていた、なんの変哲もないはずの文字を声に出して読んだだけ、なのだから。
嗚呼。もう、ほんとうに嫌! 変態みたいな男に金で買われて! 目の前で着替えをすることを求められて! ソレに慣れてきた頃にこんな部屋に閉じ込められて! この部屋に居た少女たちをみんな消化して! あまつさえカードの文字を読んだだけで暴風に襲われる! あたしが一体何をしたというの!
身を小さくしてからしばらく経つと暴風もピタリと止み、部屋は当初と変わらぬ静けさを取り戻した。
「一体何が起きたの?」
ゆっくりと上半身を起こし辺りを見回してみれば、そこには先程まで悪魔のタロットカードに書かれていた黒い山羊頭の男にそっくりなモノが居た。昂然とした佇まいで居るソレの身体はパパよりもずっと大きく、そしてたくましく、背中には蝙蝠羽が生えている。
「あ、貴方は、誰……?」
目の前に居るソレに、あたしは恐る恐る声を掛けてみる。言葉が通じるのかは分からないけれど、話しかけてみないことにはソレが何か分からない気がするから。
「我名はバフォメット」
どうやらあたしの言葉は通じたらしい。重低音気味の声が山羊の口から漏れ出た。
「……バフォメット?」
彼の名だというものを復唱してみたけれど、それはあたしの知らない名前。もしかしたら有名な悪魔なのかもしれないけれど、あたしにそれは分からない。
「そう。我は別次元における魔王であり、悪魔と称されるモノの一柱である」
「そ、そう……」
まるであたしの考えを呼んだかのような彼の言葉ではあったけれど、その内容を深く理解することができないため、あたしはソレに関する疑問を口にすることもできない。それはまるで、いきなり難しい計算問題を出され、続けざまにその答えを突き付けられたみたいな感じ。あたしにはソレが計算問題であるということまでは分かるけれど、所詮その程度でしかなく、答えを示されたとしても「そう」としか思えない。
だからあたしはただ漠然と、そんな彼が一体、こんな所に何をしに? という、やや見当違いなことしか考えられなかったし、思えなかった。でもその疑問もまた口にすることは出来なかった。
というのも急激な眠気に襲われ、その眠気にあらがえぬままベッドの上に倒れこんでしまったからに他ならないの。
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