2-②


 木々の葉の合間から抜ける柔らかな日差し。暖かな風が頬をなぞり、ふわりと、スカートの裾を持ち上げる。やさしくて、あたたかな空間。あたしはここが、大好きだった。


「メィ!」

「メィおねえちゃん!」


 遠くのような、近くのような。懐かしい幼い声がふたつ。あたしを呼んでいる。


「おねえちゃん、みーつけ!」


 傍に在った緑の茂みが揺れ、そこから姿を現したのはあたしと同じぐらいの小さな女の子だった。そしてその後ろには、その女の子よりほんの少しだけ大きな男の子が居た。ただどちらの顔もぼやけていて、どんな顔をしていたのか、誰だったのか、あたしは思い出すことができない。


 あたしを見つけた彼女はぎゅ、とあたしの手を握り、そのまま何処かへと連れて行こうとする。


「先生が探していたから、呼びに来た」


 ずんずんとあたしたちの先を歩く男の子がそう言えば、続けるように女の子が「おねえちゃんに、おむかえがきたんだって!」と嬉々とした声で笑う。


 あたしに、お迎え?


「うん、メィおねえちゃんに、おむかえ!」


 二人に連れられるまま、足早に木々の合間を抜ければ、二階建ての白い建物が目の前に現れた。すこし古ぼけてはいるけれど、寂れてはいない。むしろ、建物の中からは子供たちの、明るい笑い声が聞こえてくるほど楽しげだ。


 此処はあたしが育った孤児院だ。そして今日は、あたしが此処を旅立つ日。


 そのことを思い出したあたしの中で懐かしさが湧いて出た。そして、それと同時にやはり、この「今」はあたしの記憶の追体験であり、夢なのだ、と実感する。


 夢。そう、これは夢。懐かしさと、愛おしさと、後悔をふんだんに詰め込んだ夢。


 生まれ出る後悔を無くそうとしても、決して無くなることはない。あたしは何度も同じ過ちを犯して、何度だって後悔する。そんな、夢なのだ。


 あたしの手を引いていた女の子と、先頭を歩く男の子と共になじみなれた施設へと入る。外観もだけれど、内装も綺麗とは言い難い。けれど、此処はあたしにとって、一番やさしい場所だった。


「せんせー! メィおねえちゃん、みつけたよ!」


 こんこん、と扉を叩く、という作法も無く女の子が大きな、そう、あたし達にとっては大きくて、大人にとっては適している大きさの扉を開けた。


「あらセラフィー、ガブリエル。二人ともありがとう。メィリアは、こちらへいらっしゃい」


 扉の向こうに居た孤児院の先生が、女の子と男の子の頭を撫でて、「あなた達は遊んでらっしゃい」と二人の背を押す。


「はーい! メィおねえちゃん、またね!」

「また、な」


 また、なんて無いことは知っている。けれどあたしは「またね」と笑って彼らに手を振りかえした。そしてあたしは先生に促されるまま、部屋へと入る。そこには、見慣れない男の人が一人いた。


 青年の、しっとりとした黒い髪は肩口で切りそろえられ、服は綺麗な黒の燕尾服。茶褐色の肌は異国の人かしら? この辺りではめったに見ることのない彼の容姿に、おのずと脚がすくんでしまう。


 けれど、好奇心というものが少なからず存在していた当時のあたしは「彼があたしを迎えに来た人、なのよね?」と、おそるおそるではあったけれど、彼の瞳を見みてみたのだ。そうすれば、そこにはほんのりと光る青色があった。


 あたしを此処まで連れてきてくれた子供たちとは違って、彼にはきちんと顔があった。鼻があった。口があった。目があった。それも瞳は綺麗な藍色。お使いの途中で通る、宝石屋さんに並ぶ宝石みたいな、きらきらの色だ。


 食い入るようにじっと彼の目に見入っていれば、彼はあたしに微笑みかけてくれた。でも、どこか胡散臭いその笑顔に、あたしは彼から目を逸らし、傍に居た先生の後ろに隠れる。


 あの人は、此処の子供たちや先生とは比べ物にならないぐらい、嘘に満ちている。


「あらメィリア、何にも心配はいらないわ。今から貴女が行くおうちは、とても素晴らしいところですからね。……だから、大丈夫よ」


 とんとん、とあたしの背を押して、先生はあたしを黒い彼の前に出す。


「ワーズワースさん。本当に、この子でよろしいのですね?」

「はい、旦那様もきっとお喜びになられることでしょう」

「そうですか。……さぁ、メィリア」


 行きなさい。と先生に背を押され、目の前にいる黒い彼があたしに手を差し出す。


 やさしさに満ちた此処ではない何処かに行くのも、見知った誰かと離れるのも嫌だった。今も、昔も変わらず此処に居たかった。だけど、あたしは此処から旅立たねばならない。何の力もない、無力なあたしは大人にはもちろん、社会にも、世界にも、逆らうことはできないの。


 差し出されていた彼の手を、あたしは握る。


「……メィリアです。よろしくおねがいします」


 そう言ったあたしに、黒い彼は「よろしくお願いしますね、メィリアさん」と言い、先生に鞄を渡した。そしてそれを受け取り、中身を確認した先生は「こんなに……?」と驚き、目を見開く。


「旦那様のお気持ちです。それに、この施設も何かと入り用でしょう?」


 にっこりと笑う男。すまなさそうに、罪悪感の籠った目であたしを見た先生。


 嗚呼。あたし、売られたのね。


 孤児院に居る時点で、売るために生かされていたようなものなのだし、ある意味当然な話ではあるけれど実際体感させられると、あまり良い気持ちにはならない。でも、これに関しては先生に拒否権が無いだろうし、施設が無償で運営できるものではないことぐらい、あたしにも分かっている。


 だから、あたしは先生に「先生。今まで、ありがとうございました」と笑って見せた。


 それから黒い彼に連れられ馬車に乗せられたあたしは、町中でいくつかの店屋を回った後、館まで続くという山道を進んでいた。馬車の内側から見える森の木々が去っていく姿を目で追いかけながら、あたしはちらり、と目の前に座る黒い彼を時々見やる。


 買い物の最中こそ軽く彼と言葉を交わすことはあったけれど、馬車の中で彼は何も言わない。むしろ、御者をしているもう一人の、ティークと名乗った青年の方がずっとあたしに話しかけてくれている程。


「あ、今うさぎがあっちで跳ねていましたよ、見えました? かわいいですよね、うさぎ。ペットとして飼育してもよし、食べてもよし、毛皮もふわふわで最高じゃないですか? そうそう、最高と言えばこの間、この連合国最高の魔術を誇るヴィオレッタ様がまた国の統治に助力したらしいですよ! いやーすごいですねー!」


 ……いいえ。内容を聞く限り、これは話しかけている、というよりかは、彼の大きな独り言なのでしょうね。


 その声に対して黒の彼が何か返すことも無く、長い道のりの中、馬車の中のあたしたちは始終無言。そんな空間で暇をつぶすために、あたしはあたしを買った人は、一体どんな人なのかしら? という疑問のもと幾人かの男の人を思い浮かべてみることにした。


 顎髭をたっぷりと蓄えた人? それとも目の前の彼と大差ない、若い青年? それとも筋骨隆々な人? それとも陰湿で陰険で、偏屈で、頑固な人?


 見知らぬ誰かを思い描き、いろんな意味で高鳴る鼓動に胸を躍らせはじめた頃、屋敷の物と思しき門を通り過ぎてすぐに馬車は止まる。そして、馬車の扉を開けられ、玄関であろう大きな扉の前に降りるよう促された。


 町から遠く離れ、深い緑の木々に覆われた屋敷。外観は決して真新しいものではないけれど、手入れはきちんとされているみたいで、そこはあたしが今まで住んでいた孤児院よりもずっと綺麗に見えた。


 しかも庭には町の中でしか見ることのできなかった噴水や、孤児院の周りに咲いていたのと同じような花たちも見える。


 嗚呼、早く庭に出て、いろんなところを見て回りたい。


 わくわく、と心を躍らせていたあたしをよそに、玄関にある大きな扉を、黒の彼と御者の彼が開く。すると、そこには癖のあるプラチナブロンドの髪に、水色の瞳がとても特徴的な男の人が立っていた。均整のとれた顔つきに、すっと通った鼻筋。着ている服もとてもきれいで、高級感にあふれている。


「おかえり、ワーズワース。ティーク。そして、初めまして。メィリア。僕は君の父となるペチュニア・オールミニーだ。気軽にパパ、とでも呼んでくれたまえ」


 優雅な会釈をした彼はあたしの手を取り、手の甲にキスを落とした。


「は、はじめまして。あたしはメィリアです。これから、よろしくおねがいします」


 取られていない方の手でスカートの裾を摘み、かわいらしく会釈をしてみせると、彼はにこやかに笑う。そして、町で買った品物の一部を黒い彼から受け取ると、「さあ、君を部屋まで案内しよう」とあたしの手を改めて握り、上階へ繋がる階段を一緒に駆け上った。


 パパとして、父親として。あたしをお金で買った男に連れられ、あたしはあたしのために設えたという部屋に案内された。開かれた扉の向こうには、かわいい、を詰め込んでみたような部屋が広がっている。


 床一面を淡い桃色の絨毯が覆っており、薄い膜のような天蓋がついた寝台や、孤児院にいた女の子たちが見たら大喜びしそうな化粧台まで置いてある。その他にも見たことの無いほど凝った造型の燭台や、細かな装飾の小物が多く置かれていた。


 窓を飾るカーテンやベッドの上に転がっているクッションはフリルが多めで、見れば見るほど「かわいらしい」や、「愛らしい」、と言った言葉がピタリと当てはまる。


「気に入ってくれたかい?」


 にっこりと笑い、そう問いかけてきたペチュニア。


 正直に答えるならば、「微妙」だった。かわいい物や、華やかな物は別段嫌いではない。けれど、あたしには相応しくないと思うし、あたしの趣味としてはもう少し落ち着いた色の部屋が好みなの。


 けれど、あたしに視線を向けている彼の目が、あたしが「はい」と答えることを期待していた。


 もしここで「微妙」なんて言葉を吐けば、待遇が悪くなりそうなことぐらいは予知できたあたしは、「はい! とってもかわいくて、良いお部屋ですね。すごく気に入りました!」と無邪気に喜び、答えて見せた。


 その答え方は正しかったらしく、彼は「そうか! それならよかった!」と満足げに頷いた。


 その後しばらくの間、きらきらの詰まった、宝石箱のような部屋に一通り驚きつくしているように振る舞ったあたしは、ベッドに座りにこやかにこちらを見ていたペチュニアの元へ駆け寄った。すると彼は黒い彼から受け取っていた荷物をベッドの上で広げ、その中から可愛らしい薄桃色のドレスを取り出して見せた。


「さあ。今着ている服を脱いでおくれ、メィリア」

「え……?」


 今、此処で? それも、初めて会ったばかりな貴方の前で、洋服を脱ぐの?


 そこまで口にしないまでも、内心疑問を抱くあたし。


 けれど、あたしのそんな疑問を黙殺するように、彼の笑顔が、目が、あたしをじっと見定めていた。真正面に居る彼の水色の瞳が、ねっとりと、じっとりと。お肉を品定めするみたいに、あたしの身体を見ていたの。


 蛇に睨まれた蛙みたいに、はくり、とあたしは息を吸う。戸惑っては、いけないのよ、メィリア。だって、あたしはこの人に、お金で買われたのだから。


 パパとして、父親として彼はあたしを「購入」したの。けっして、本当の娘のように扱うわけでは無いの。だって、本当の娘は、お金なんてもので買わないでしょう?


 人前で裸になることに抵抗がありながらも、彼の目が促す通り、あたしは自分の服に手をかけた。


 まずは羽織っていた薄手のケープを取り払い、海軍服を模したワンピースの胸元に在るスカーフを外す。そしてワンピースの胸から腹にかけてあるボタンを一つ一つ外していく。


 毎日のことで慣れているはずなのに、緊張のせいか指が震えてボタンがうまく外せない。きっと慣れない場所で脱いでいるからなのよ。そうに、違いないのよ。


 目の前に居るペチュニアに見られている。という事象から極力目を逸らし、あたしは白の肌着だけの姿になる。けれど目の前にいる彼の目は、その先をあたしに促した。


「っ……」


 彼から目を逸らし、身体をこわばらせる。けれど、やらなくては終わらない。終わらせるためには、やりきらなくてはならない。


 意を決し、あたしは肌を覆う薄い布たちをすべて取り払い、生まれたままの姿になって見せる。


 そんなあたしをペチュニアは恍惚とした表情でじっくりと眺め、舐めつくすように見た後、ベッドに広げていた薄桃色のドレスを着せにかかった。


 手始めに、彼はあたしに新しい肌着を纏わせる。やけにゆっくりとした動作で、いやに慣れた手つきで。彼は素肌に指先一つ触れることのないまま、ベッドの上に広げていた薄桃色のドレスもあたしに着せて、着飾った。


「うん、よく似合っているよ」

「……ほんとう?」


 先ほどまでのことが嘘だったかのように笑うペチュニア。そんな彼の前で、くるり、と回って見せるあたし。彼が嘘だったかのようにふるまって見せるのならば、あたしもまたそうするしかないの。羞恥も恥辱も、嘘にするしかないの。覚えていて良いことなど、何一つないのだから。


 今でも震える指先を握りこみ、あたしは無邪気な笑顔を浮かべてみせるのだ。


 その瞬間を境にして、視界がぐるりと回り始めた。


 ぐにゃぐにゃと色や形を変えて、伸びたり縮んだり、時にはキラキラと眩くなったりしていく。本来であればそんなことあり得はしないけれど、此処は夢なのだから何が起きたっておかしくはない。


 定まりのないままの空間に身を委ね、あたしは当時のことをゆっくりと思い出す。


 ペチュニア・オールミニー。以降、パパとなる彼に買われ、飼われたあたしのそれからはとても有意義なものだった。


 午前中は主に勉強。とはいっても屋敷に来たばかりのあたしには家庭教師なんかは着いておらず、パパがくれる本や、屋敷に元からあった本を読む程度の勉強。その中でもあたしがとびきり気に入っていたのは、魔術の本。


 あたしたちが暮らしていた屋敷の前の持ち主は魔術の研究に熱心だったみたいで、本棚に魔術書が並べられていたから、魔術の素養があったあたしはそれらを熱心に読んで、学んだの。


 午後は外で遊んだり、勉強の続きをしてみたり、色々していたわね。


 屋敷にはあたしの話し相手になってくれそうな子供は居なかったけれど、庭には「妖精」や「水の精霊」が居て、遊ぶことができたから、淋しいとか、つまらないとは思わなかったわ。


 きれいなお洋服に、優しいパパ。知識欲を満たす本と、庭に居る友達。おいしい食べ物。清潔なシーツ。お風呂にも毎日入れて、欲しいものがあれば、望めば何でも手に入る。そんな円満な生活。


 ただ、その中で唯一不本意であったのは、パパと夕食を摂る時には必ず、彼の手で着替えをさせられるということだった。彼はその際に、一度たりとてあたしに触れはしなかったけれど、それでもあたしには彼の目が、彼の手が、彼の吐息が、何よりも嫌だったの。


 あの時間さえなければ、とても幸せな日々だったと思う。


 食べる物にも、着る服にも、寝る場所にも、何一つ困らない。そんな穏やかで、和やかな、されど変質的な日々は一年近くで、唐突に終わりを迎えた。



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