1-①



 十年後――

 うっそうとした緑が茂る森の中で、僕は彼女と共にいた。

 傍らには精霊が住まいそうなほど澄み切った泉に、葉の隙間から注ぐやわらかな日差し。さわり、と風が鳴けば、木の枝に干されている薄桃色のロリータドレスがはためいた。

 麗らかな安息日。いうなれば安穏とした空間の中。僕は、僕の膝上に座るPの魔女、メィリアの長い髪を梳いていた。

 大人しく僕の膝に納まっている彼女が来ている服は、いつものロリータドレスではなく、僕のワイシャツだ。というのも、彼女、何を思ったか唐突に出て行ったと思っていれば、血まみれになって帰ってきたからに他ならない。

 替えのない彼女の衣服は血まみれ。同じく彼女の髪も血まみれ。しかも血を浴びてからある程度時間が経っていたのか乾いてしまっており、そう簡単には汚れが落ちない。

 髪についた汚れは一旦水で洗い落としはしたが、それでも細かなところに残ってしまっている。衣服の方は桃色であるため何とか誤魔化しがきくが、それでも汚れを落とすための道具が無い野営では、最悪の作業であった。

 そのため、彼女に上着を貸している僕自身の上半身は裸だ。もしこんな所を――、ワイシャツ一枚を羽織った幼女を膝に乗せる半裸の男の姿、を事情を知らない誰かに見られでもしたら、あらぬ誤解を生みかねないだろう。早めにどうにかしなければなるまい。

 こちらとて、シャツの裾からのびる柔らかな彼女の脚を撫でたい。といった湧きあがる劣情を押し殺しているため、誤解を抱かれでも弁明しにくい身なのだから。

「まったく。夜中にいきなり飛び出ていったと思えば昼前に帰ってきて……、それに替えの服もないのに、服も血まみれにしてくるから……」

 ブツブツと小言を漏らし、メィリアの髪についている赤黒い乾燥物を指でなぞる。そうすれば、膝上の彼女が僕を見上げ、窘めるように僕の顔をその小さな手で撫でてきた。

「もぅ! ペチュニアが『たまには肉が食べたい』って言うからわざわざ熊を狩って、しかも解体までして来たっていうのに、そんなお小言を言うなんて、どういうつもりなのかしら? あたしの身を案じてくれているつもりならまだしも、服や髪の小言だなんてあたし聞きたくないわ。そうね、百歩譲って、ペチュニアがあたしのママだったとしてもね!」

「僕は貴女のママじゃありません! まあ、育ち盛りの身としては、滅多に口にすることのない肉はありがたかったですし、おいしかったですけれども……!」

 不服気な口ぶりの中に、ほんの少し礼を込める。本当は笑みの一つでも浮かべたいのだけれど、きっと僕の表情は揺れ動かず、憮然とした表情のままだろう。

 何せ僕は彼女に助けてもらうより前に、笑みを奪われてしまっているのだから。

 普通の人を相手にする時に、笑みの一つも浮かべられないのは少しばかり面倒ではあるけれど、それはそれで別に構いはしない。僕を救ってくれた彼女にだけ、僕の気持ちが伝わりさえすればそれで良いのだから。

「それに、僕の名前はペチュニアではなく、ツクバネだと何度言えば分ってもらえるんですか? 十年も一緒に居るんですから、そろそろそう呼んでくれたって、良いと思うんですけど」

 メィリアの小さな唇が始まりの「P」の音で跳ね、次の「チュ」で尖る。その「ペチュニア」呼びは、ペチュニアと言う名ではない僕に充足感をもたしてくれるため、やぶさかではない。むしろ何故自身の名前がペチュニアではないのかと、呪いさえしてしまいそうになるほどだ。

 それにも関わらず何故僕は「ツクバネである」と言い続けるのか。それは、そうしなければ本当に「ペチュニア」になってしまう。と、感じているからだ。

 心の奥で蠢く彼女へ劣情。それはおそらく「ペチュニア」と本来呼ばれるべき者が持つ感情。あるいは記憶――。

 何故、第三者と思しき感情や思考が僕の中で蠢いているのか。どうそんなものが僕に伝播してきているのかは知らない。加えて、何故彼女が僕をその名で呼ぶかも分からない。

 けれど僕が「ペチュニア」であることを認めてしまったら、僕は最早「僕」ではなくなってしまう気がするのだ。

 僕は、僕を救ってくれた彼女の笑顔を守り続けたいだけであり、彼女に劣情を抱き、彼女をないがしろにしたいわけでは、決してない。だから僕はせめてもの抵抗として、「ツクバネである」と言い続ける。

「もぅ! ママじゃあないなら、お小言ばかり言わないでちょうだい! それに、そんな憮然と無表情を掛け合わせたみたいな、不細工な顔も止して。せっかく、喜んだペチュニアのかわいい顔が見られると思っていたのに!」

 心の内で葛藤していた僕を知らぬ彼女は、ペチュニアという名前については華麗に無視をする。彼女が何も語らぬというのであれば、僕はソレについて追及はしない。彼女の秘密を暴き、僕と彼女の関係性が崩れてしまうのは、本意ではないし、暴いた責任も取れやしないだろうから。

「僕ももう二十になるんですから、かわいいだなんて言葉似合いません。不細工で結構です」

「あら? あたしにとってペチュニアは、いつまでたっても子供なんだから、かわいくて良いの。かわいくなかったら、連れまわしなんかせずにとっくに捨てているわ!」

それこそ、目に入れても痛く程に貴方はかわいいんだから、安心しなさい! と一人豪語し、彼女は特に表情を変わっていないであろう僕の頬をむにむにと弄る。

「かわいい、かわいい、あたしのペチュニア。その紫のアメジスト、柔らかなプラチナブロンド。日々成長していく雄々しき肉体。そんな貴方を育めるあたしは、なんて幸福者なのかしら」

ひとしきり頬を弄り終え、満足げに僕の頬から手を離したメィリア。彼女の手に若干の名残惜しさを感じながらも、僕は引き続き彼女の髪を梳き、時折濡れた布で血を溶かしながら彼女を綺麗にしてゆく。

薄桃色の柔らかな色味を蹂躙する、赤黒い血。時間が経ち、乾燥してしまっているため液状ではなくなっているから、その汚れがこれ以上広がることはまずないだろう。でも僕はソレが許せない。返り血でなくても、彼女がこれ以上汚れることが気に入らないのだ。

 何故ならこの僕自身が、完璧であったはずの彼女を穢してしまったから。

 永遠に同じ時間を保ち続ける。「祝い」をその身に受けていた彼女は、何をされても傷一つ負わない。はずだった。だが、僕を生き返らせる、メィリアの言葉を借りるならば「産みなおす」際にその「祝い」を分け与えたがために、その効果は薄れた。いうなれば、彼女に傷がつくようになってしまったのだ。

 些細な傷も、即死に至る傷も、すぐさま戻るため「死」が彼女を襲うことはない。だが、傷がつくのだ。傷つかない、完璧な存在であった彼女に穢れが生じるようになったのだ。

 そんな許しがたいことを、この僕が許容できるはずがない。

 彼女に救われたからこそ、彼女を盲信してしまう。そして、盲信してしまったが故に、彼女が帯びたその欠落が許し難くもある。

 嗚呼。僕如きを救うために、何故彼女は彼女自身の「祝い」を捨てて、不完全に堕ちたのか。僕にはそれが分からない。

 ――彼女は、永遠であり、完璧であるべき存在なのに、どうして。

 そう内に湧きあがるその思いは、はたして僕自身のものなのか。あるいは僕の内で蠢く劣情(ペチュニア)の声なのか定かではない。否定したい気持ちもあるけれど、今回ばかりは同意せざるを得ない。

 幼い姿のまま、一切の時を重ねない少女の肉体は蠱惑的だ。発展途上の慎ましやかな肉体はなだらかで、衣服の裾から伸び出る肌は日焼けというものを知らない色。それに「祝い」によって最善の状態へと巻き戻る身体に傷はなく、稀に触れることを許された素肌の感触は滑らか。

 柔らかく、滑らかなメィリアの感触を思い出し、考え至るのは、「もしや、僕の中で蠢く彼女に対する劣情と、彼女が僕を『ペチュニア』と呼ぶ要因は、彼女の言う『産みなおし』に含まれているのではないか」というものだった。

 もしそうであるならば、彼女によって産みなおされているこの僕は、一体誰なのだろうか。

 ペチュニアか?

 ツクバネか?

 あるいは劣情(ペチュニア)だろうか?

 まあ何にせよ、「産みなおし」が劣情とペチュニアの理由として近しい答えなのだろう。明確な回答こそ、メィリアに語ってもらわなければ分かりはしない。それに、ペチュニアと劣情に関しての事柄は大いに気になるとしても、今はそんなことを考えている時ではないのだ。

 何せ、僕は彼女の穢れを、不完全さを少しでも取り除き、贖罪としなければならないのだから。

 完璧だった彼女を穢し、不完全へと至らせてしまった僕に対して、彼女は罰を与えない。責苦の一つも言わない。むしろ、「産みなおせたこと」を喜んでさえいた。

 彼女が嬉しいのであれば、僕もまた嬉しい。それに、喜ぶ彼女の姿が見られるのも、彼女が「嬉しい」という感情を抱く理由に僕が含まれているのも嬉しい。けれど、結果として彼女は不完全に堕ちたのだ。

 彼女が楽しかろうと、嬉しかろうと、誰一人として僕を責めなかろうと、その結果だけは変わりはしない。ならば、僕は自分自身に罰を与え、その罪を償うしかあるまい。

 メィリアの髪についていた血を吸い、赤く色付く布の面を変えて、改めて僕は彼女の穢れを落としてゆく。

 これは贖罪なのだ。

 メィリアに許してほしいわけじゃない。僕が、僕自身を許すためだけにやっている、自己満足の贖罪なのだ。

 そんな、僕の葛藤すべてを知ってか知らずか、彼女は時折こうやって理由を付けて髪や衣服を汚し、巻き戻しをせず帰ってくる。

 彼女の気まぐれで、わざと汚したままにして帰ってくるのかもしれない。あるいは、彼女もまた僕と共に居たいがために汚してくるのかもしれない。

 何かしらの理由があると邪推しなければ、自分の身に起きた事象を巻き戻すことのできる彼女が、わざわざ髪と服を汚して帰ってくる必要がないのだ。

「ふふっ。好きなだけ触ると良いわ、ペチュニア。貴方は、あたしに触れて良い唯一なのだから」

 僕の内に蠢く劣情も知らず、僕の胸元に背を預けるメィリア。

「これでもあたしは満たされているから、貴方はペチュニアの思うまま、貴方の手で、あたしに触れてくれていれば良いのよ」

 頭部を動かし僕の方に顔を向けた彼女は、髪に触れる僕の手に、その小さな手を重ねる。僕の視線と交差する瞼の奥には、澄んだ空色の瞳。その傍らに淡い彩りを添える頬。薄紅の花弁を落とした唇がなまめかしく開き、あらわれた舌先は、あかい、血の色。

 それらすべてが、まるで僕の中で蠢く劣情を奮起させるために在るようだ。

 僕は、彼女の髪から手を離し、彼女の露わになった首筋に触れる。小さな彼女の首は、僕の手一つで握り潰せそうなほど細く柔い。

「ペチュニア?」

 唇を跳ねさせ、僕ではない誰かの名を呼ぶメィリア。いっそこのまま彼女の首を手折ってしまったなら、彼女を僕だけの物にできるのだろうか。

 まあ、不完全なれど「死」が彼女を襲うことはないから、永遠に僕だけの物にすることは難しいだろう。けれど、一瞬でも彼女が僕だけのものになるというのであれば、やぶさかではない。

 嗚呼、贖罪も、独占も、劣情も、ひとまとめにしてしまえたら、なんと楽なことか。

「メィリア……、」

 「さん」と、続けようとした僕の口を、小さな人差し指で塞いだメィリア。

「閣下。ペチュニアとあたしだけの平穏をぶち壊さんとする不埒者は、何人いるのかしら?」

 僕の膝上から腰を上げ、立ち上がった彼女の呼びかけに答えるように、メィリアの使い魔でもある黒山羊が何もない空間から現れる。

「十一名かと」

「そう、ありがとう」

 人数を答えた黒山羊の頭を撫で、その黒山羊を彼女の身の丈三倍は優にあるだろう黒く太い大斧に変える。そしてその大斧を握り、ゴゥ、と風を切れば、風圧により周囲一帯の草花が、握りこぶし一つ分ほどの高さできれいに刈り取られた。無論、僕の身体にもソレは襲い掛かり、腰を据えていた僕の足全体を一薙ぎに両断する痛みが走る。

「っ!」

 思わず唇を噛み、脚を抑える。だがそこに傷はなく、血の一滴はもちろんズボンへの損傷さえもみられない。

 それもそのはず。僕はメィリアに与えられていた「永遠に同じ時間を保ち続ける」という「祝い」を、分けてもらった身なのだから。

 故にどんな傷を負っても僕の身体と付属物は、その傷を負う前の時間に戻るのだ。ただメィリア本人とは違って、僕の身体はこれまでのように成長するし、老衰という終わりもあるらしいが。

「さぁ、出てきたらどうかしら?」

 僕と彼女の平穏をぶち壊した不埒者がソコに居るのだろう。僕たちが今まで背を向けていた側に彼女が声を掛ければ、周囲の木々が揺れ、白の装束に銀の防具を着込んだ者たちが複数現れた。しかもその衣服には、この大陸を統べる連合王国の紋章も描かれている。

「白の、祈祷騎士……?」

 白の祈祷騎士。連合王国の中心を担い、連合国内の秩序を守るとされている者。そして彼らは、魔女ないしは、穢れを帯びた聖女を断罪、すなわち殺す――ことも職務とした、兵士だ。噂によれば、彼らは必ず魔女や聖女を戒めるための呪具を持っているのだとか。

 白の祈祷騎士についての情報を脳裏に甦らせた僕の額に、汗がにじむ。

 メィリアと行動を共にしてからは、一度たりとて彼らと邂逅したことはない。運が良かったのか、あるいは故意的に彼らに会わないようしていたのかは分からないが、少なくともメィリアは魔女だ。いくら一人で熊を狩れても、天敵とされている白の祈祷騎士相手では不利に違いない。

 急いで此処から離れようとメィリアの小さな手を取ろうとするが、彼女に避けられ空をかく。

「十一人と聞いていたけれど、十人しかいないの? まぁ、いいわ。みんな、始末してあげる」

 ――清らかなる泉の精よ、あたしの【彼】を閉じ込めて。

 メィリアはゆるく笑みを浮かべ、彼女は幼女とは思えぬ力で僕を突き飛ばした。その先が泉であるのは、見なくても分かる。それにメィリアの髪を洗った際に確認したのだが、さほど深くもなかったはずだから大きな心配もいらないだろう。

 ただ、落ちる刹那に見たメィリアのことが気がかりで仕方がない。

 そう。例え、彼女が浮かべる表情が嬉々としたものであったとしても。

 つかの間の思考の後、バシャン、と激しい水音を立てて落ちたのは冷たい泉。突き飛ばされた際に、さほど深くもないはずだから心配はいらないだろう、と判断した泉。だがいくら待てども足が水底に着くことはなく、水中でいくらもがいても、水面に顔を出すことができなかった。

 泉とはいえ落とされたのは陸に近い場所なのだから、多少は浅いはずなのである。にもかかわらず水面に顔を出すことは愚か、手さえも届かない。何度水を掻き、脚を動かし、泳ごうとしても先へ進まない。泳いだ経験もある身としては、何故、としか思いようがない現状だった。

 そして人間とは呼吸をし、酸素を得なければ死ぬのである。故に、僕は死んだ。そう、死んだのだ。一度死んで、巻き戻った後目覚めて、また死んで。それを幾度となく繰り返す。

 彼女に産みなおされた僕の時間は、彼女同様に巻き戻る。そしてその時間は「死」へ至った時にもまた巻き戻されるから。

 絶対的な「死」はないものの、慢性的な「死」が襲いくる水中はひどく冷たく、音もない。肺を埋める水の暴力は最早拷問に等しく、このまま二度と目覚めたくないと思いたくなるほどだ。

 だが、こうやって思考し、正気を保っていられるのは一重に巻き戻りの効力のおかげだろう。ただ単なる「不死性」であったなら、酸素を送られなかった脳細胞が確実に死滅しているはずだ。

 巻き戻りを幾度か繰り返し、やっと水面に顔を出すことができた僕の目に飛び込んできたのは、白の祈祷騎士をモサモサと草のように食む、黒山羊の姿だった。

 山羊が人を食べている。それも鎧を取り外すこともなく。

 この世界には目には見えない精霊がおり、魔術があり、メィリアのような祝われた存在も居るのだ。山羊が人を食べる――という理解の追いつかないことが目の前で起こっても不思議ではないし、むしろ体感として何かが起きてもおかしくはない。

 そう、それは先程まで今僕が直面していた事象もまたそうなのだ。

 僕が幾度も死に、巻き戻った泉は、もがかなくとも立っていれば腰ほどしかない水量。なのに、何故か僕は泉の水から出ることができなかった。この水量で、どうしてか水底に足がつかなかった。

 偶々なのか、あるいは故意的になのか、精霊とやらが僕にいたずらを仕掛けたのか。精霊の存在を認識することのできない僕には、最後の一つはおそらく一生分かりはしないだろう。

 ちなみにメィリアは「済んだ事に対しての考え過ぎは、時間の無駄よ」と、頻頻繁に言ってくる。

 目の前で起こっていた通常ではあり得そうにもない光景を見ながら、僕は泉の外へと這い上がる。そして泉から陸に上がりきれば改めて僕の時間が巻き戻り、びっしょりと濡れていた髪も肌も、穿いていたズボンも乾いた状態のものへと戻った。

「……閣下、メィリアさんは?」

 口元に血をべったりと付け、モグモグと肉を咀嚼する黒山羊にそう問いかけてみれば彼は頭を動かし、鼻先で彼女がいるのだろう黒い林を指し示した。

「ありがとうございます、閣下」

 それ以上彼の邪魔をしないよう、僕は彼が指し示してくれた方へと移動する。

 彼女の使い魔である黒山羊について、僕は多くを知らない。知っている、否、メィリアより教えられたことはただ一つ。「彼の邪魔だけは、決してしてはいけないわ」というものだけだ。

 それ以外は何も知らない。あの黒山羊の主食も、名前すらも知らない。ただ、彼のことをメィリアが「閣下」と呼ぶから、僕もまた彼をそう呼んでいるに過ぎないのだ。

 黒山羊が示してくれた黒い林。その中で茂る草木をかき分けながら歩いていれば、白の祈祷騎士の身体を引きずるメィリアの姿があった。白いワイシャツにところどころ赤い染みを滲ませてはいるものの、それ自体に穴や切り傷などは見られない。

「メィリアさん、無事ですか?」

「……貴方は、一体誰にそう言っているのかしら? でもまあ、一応『無事に決まっているじゃない』と答えてあげるわね」

 足を止め、にこりと無垢な子供の笑みを浮かべたメィリア。だが、彼女が引きずっているのは大の男である白の祈祷騎士だ。そしてそれを引きずっている方と反対の手には、中身の入った銀の兜が掴まれている。

「……他の白の祈祷騎士たちは?」

「嗚呼。他の九人はみんな始末済みよ。ちなみに、コレは途中で怖気づいて逃げ出した十人目よ。ちなみに彼ら、金で雇われた野盗みたいだから、面白味もなかったわぁ」

 「野盗?」と疑問を抱いた僕に、「そう、野盗!」と軽快に返したメィリアは、首から下しかない白の祈祷騎士を手放し、その懐から赤黒く染まった皮袋を取り出した。

「はい。これ、ペチュニアが管理しておいて!」

 ずっしりとした重たさの皮袋。それを受け取る際、皮袋越しにジャラジャラと音が鳴り、もしや、と中身を見てみれば大量の金貨と銀貨が入っていた。

「コレは……」

「魔女討伐の前賃、と言ったところかしら? まさか、この程度で始末される奴らが白の祈祷騎士ではないでしょうし、この程度の者たちに魔女殺しの白の祈祷騎士がやられて、身ぐるみを剥がされるわけもないでしょう?」

 まあ、この程度の雑魚にやられるおバカな白の祈祷騎士の姿は、面白そうだから見てみたくはあるけれど!

 そう零した後、メィリアは少し考え込む。そして「髪よ、巻き戻りなさい」と、自らの髪に着いた血のこびりつきも、木々の枝によって引き起こされた絡まりも、すべて巻き戻す。そして続けて「髪よ、集い結わえなさい」と唱えれば、彼女の長くしなやかな髪は生きているかのように集い、山羊の角を彷彿とさせる、何時もの髪型へと戻った。

「さ、これで絡まることもなくなったでしょうし。行きましょう、ペチュニア」

 改めてにっこりと笑い、メィリアは僕たちが元いた泉の方へと改めて歩きはじめる。勿論、先程手放した白の祈祷騎士の身体をきちんと掴みなおして。

「それに、彼らが持っていた武器は彼ら自身の物だったもの。聖女による魔術加護のない装備品で魔女と対峙をするなんて、引け腰の祈祷騎士がするわけないわ! アレ等はね、仰々しい地位や見た目とは違って、臆病で、無駄にプライドが高いの。しかも、その分だけ自分のプライドと保身と利益を考えてから行動するから、とっても分かりやすい子たちなのよ」

 くすくす、と漏れ出るように笑ったメィリア。彼女は、隣を歩く僕を見上げて「それに裏ではいろいろ外道なのだと耳にするから、ペチュニア。貴方は気を付けておきなさい」と言ってきた。

「僕が、気を付けるのですか?」

 「メィリアさんではなく?」と続ければ、彼女は「だって貴方、あたしと違って身を守る術を持ち得ていないでしょう?」とまた一つ、笑う。

 身を守る術を持ち得ていないも何も、それは貴女が教えてくれないからでもあり、少しでも身体を鍛えようとすれば貴女が邪魔しに来るからではないか。

 少しばかり、隣を歩く少女に憤りを感じながら、自身の割れることのないなだらかな腹部を撫で、僕は一つため息を吐く。

 これでも、守りたい存在がある以上、僕としては多少身体を鍛えておきたいという欲があるのだ。例えその欲が傲慢そのものであったとしても、せめて自分自身の身が守れて、彼女の邪魔にはならない程度に鍛えるぐらい、努力してみても良いはずだ。

「老衰での寿命まで死にはしない貴方は、捕まってしまえば最後、彼等にとって生きの良い玩具になる。ふざけ半分で生きながら身体を切り開かれて臓器を潰されたり、巻き戻りが精神面にも及ぶのか確かめるために数多の屈辱を味わわせたり。人間の思考の数だけ、いろんな『いじめ』方をされるの」

 ヒトとしての尊厳を踏みにじられて、人格も否定されて。生きているのに、死んでいるなんて。そんなの、嫌でしょう?

 何一つとして面白くないにもかかわらず、お決まりの笑みを僕に向けたメィリア。暗い林の中で時折ちらつく光彩が、嫌になまめかしく彼女を照らす。おそらくここは、秘密を暴くには都合の良い場なのだろう。

 誰もいない。何もいない。光さえもまばら。そんな中を、あこがれの彼女と二人で歩くのだ。

 小さな彼女の腕を引き、服や髪が汚れることも厭わず組み敷けば、きっと彼女は相変わらずの笑みを浮かべてくれるだろう。まあ、その後すぐに、「ママを襲おうとするなんて、不適な子ね」等と皮肉を言われるのだろうけれど。

 想像はするものの実行に移すところまではいけない僕は、歩み続ける彼女の言葉に耳を傾ける。

「『いじめる』ことに対して快感を覚えた人間は、他者の痛みになんて無頓着なの。自分が心地よければそれで良いのだから」

「なら、護身術の一つや二つ教えてくれても――」

 その言葉を聞いた彼女はピタリと足を止め、僕の嘆願を「嫌よ」と両断する。

「何故、ですか」

「あたしはね、危機感を覚えておきなさいと言っているだけなの。あたしと一緒に居る以上、ペチュニアは誰にも渡さないわ。貴方がイイ子を見つけて、親離れするまで絶対にね」

 ふぃ、と僕から顔を背け、再び歩きはじめるメィリア。

 イイ子を見つけて、親離れする? ようは番を見つけて、子供を成したりしろ、と彼女は言っているのか? 僕を救った彼女が、僕を一番に考えているはずの彼女が、何故そのようなことを言うのだろうか? 彼女は僕が邪魔なのか? あるいは一番に考えているが故に、大衆の幸福とやらに当てはめているのだろうか?

 例えそのどちらでもなかったとしても、果たして僕にそんなことができるのだろうか?

 メィリアと出会う前ならばいざ知らず。出会ってしまってからでは、他の人間の何処に魅力を感じれば良いというのだろう。れっきとした男性ならば、おそらく成熟した女性。すなわち子を成すのに適した豊満な胸や、腰に欲情するのだろう。

 だがそれらはメィリアには無い。今、僕の目の前に居る理想的な女性像はメィリアであり、未成熟な少女なのだ。

 僕の理想。僕たちの理想。先程だってそうではないか。暗い木々の合間で笑んだ彼女に、僕は何を思った?

 自分の内にある劣情が、自分自身の思考と重なり合うことを厭えず、僕は思考を止める。

 これ以上考え続けては、いけない。

 隣に居るメィリアの小さな歩みに合わせ、ゆっくりと引きずられる祈祷騎士の肉。がさがさと草木を揺らしてたどり着いたのは、先程まで僕たちが居た泉のある開けた場所だった。

 泉の周囲に落ちていた祈祷騎士達、否、野盗の姿は影も形もなく、黒い山羊がぽつんとその場に居るだけ。此処で幾人も殺されたのだと、その場に居る黒山羊がそれらを食べたのだと、思うことすらできない安穏とした空間。おそらく地面には血の一滴も、布の一破も、落ちてはいないだろう。

 干しっぱなしにし、半ば忘れかけていたメィリアのロリータドレスを手に取ってみれば、十分乾いているようだった。それに、見たところ血の染みも大して目立ってはいない。

「閣下。これも食べて良いわ」

 安穏とした空間、陽だまりの中。どさり、と音を立てて黒山羊の眼前に白の祈祷騎士の格好をした肉を落とすメィリア。

「十一人目はどうした?」

「他の子のお手付きだったから、見逃してあげたわ」

「なるほど、な」

 彼女の持ってきた肉が身に着ける甲冑を、剥ぎ取らぬまま食べはじめる黒山羊。硬質的な金属音と、肉と皮がちぎれる音。口からぼたぼたと血を零し、それらを咀嚼する黒山羊から目を逸らし、「いくらなんでも、殺し過ぎではありませんか」と僕は言葉を零した。

 別段、彼女に人殺しを止めろと言っているわけではない。曲がりなりにも彼女は命を狙われたのだし、身を守る術、自己防衛として人を殺め返してしまっても、それは致し方のないことだろう。だが、彼らは金で雇われた野盗だ。それに、戦意を喪失し逃げた者を追いかけ、殺すのは、少しどうかと思うのだ。そう、小指の先程度だけ、そう思うのだ。

「魔女と対峙していいのは、どんな残忍な方法で殺されても構わないという、覚悟がある者だけよ」

 ふ、と吐き捨てるように笑み、僕の方へやって来るメィリア。

「あたしは独学で学んだ程度だから、こんな普通の殺し方しかできない。けれど、他の魔女や聖女は違うわ。彼女たちは毒、拷問、幻影、洗脳。多種多様に渡る方法、連なる魔女や聖女によって紡がれた長年の魔術によって、あらゆる苦痛と苦悩と屈辱を味わわせることができるのだから」

 でなければ、あたしをこんな風にできるはずがないでしょう?

 両腕を広げてくるりと回る少女。白いワイシャツの裾がはためき、彼女の柔らかな腿肉をさらけ出させた。

「殺すのなら、殺される覚悟でくるべきよ。そもそも命は対等だし、あたし達だって自分の身はかわいい。それにね、そもそも人間が本当に好きなら、魔女になんてならないわ」

「なら、メィリアさんは、人間が嫌いなのですか?」

「別に? ただ、好きではないだけよ。それにね、もしあたしが人間を好きだったとしても、人間があたしを受け入れられないから、結局は魔女になるしか道がないの」

 くるくると回っていた動きを止め、両手を自らの後ろへ持っていく。そして、僕から顔を背けて、「成長しない。年老いない。死ぬことが無い。その程度の永続性なのに、彼らはあたしを軽蔑する」と言い切る。

「だからあたしは、聖女にならないし、なれない。それに、さっきも言ったでしょう? 『老衰での寿命まで死にはしない貴方は、捕まってしまえば最後、彼等にとって生きの良い玩具になる』って。それは、あたしも同じなのよ」

 嗚呼、同じどころか、もっとひどい。

 僕には少なからず寿命がある。だが、祝われ続けている彼女に、寿命と言う概念は無い。ならば、もし彼女が白の祈祷騎士に捕まえられてしまったら、彼女はずっと彼らの慰みものになるのだろう。

 そんなこと、許されない。

 彼女を穢していいのは、僕だけだ。

 彼女に穢れの一つもつけたくない、許されない。という気持ちに対して、穢していいのは自分だけだ、という独占欲が自分の中で拮抗する。ただ、自分でも自覚できているように、そのどちらも不純でしかない。

 僕を救ってくれた彼女は尊ぶべき人だ。穢して良いわけもなければ、綺麗にすることさえも贖罪の一部。ひいては、独占すること等おこがましいにも程がある。

 そこまで考えた僕は、またしてもそれ以上考えることを放棄した。どうせこれ以上考えたって、同じことの繰り返しになることは、目に見えて明らかなのだから。

「まあ、そんなことも含めて、あたしが、あたしと対峙した者を殺す理由はただ一つ。あたしの不死性を漏洩させない、それだけのためよ。彼らには恨みも、憎しみもないけれど、あたしは彼らを狩りつくす。機密事項の漏洩は、極力防ぐべきでしょう?」

 そう言って、僕に愛らしい笑みを向けたメィリア。彼女は僕の内に蠢く劣情も、贖罪も、独占欲も、知らない。そう、知らないはずだ。それなのに彼女は「それに、あたしを覚えていていいのは、ペチュニアだけなんだから」と囁き、すべてを見透かしたかのように言葉を続けるのだ。

 「貴方だって、嬉しいでしょう? ペチュニア」と。

 僕ではない僕の名前を、さも僕の名前であるかのように宣うメィリア。ソレがどれほど残酷なことなのかさえも、彼女は知らない。

「僕は、ツクバネですと何度言えば――」

 わかってくれるんですか。

 何時もの返し言葉を言おうとすると、不意に視界に黒いものが横切った。

「あら」

 メィリアが僕と彼女の間で羽ばたく小ぶりの鳥のような物へ、おもむろに手を伸ばす。はたはたと羽ばたく姿は鳥そのものだが、生き物らしい躍動が感じられない。まるで、羽ばたく機能を付けられた、別のナニカだ。

 これは一体何なのだろうか、と思い、近付けば「それ以上はダメよ」とメィリアに制される。

「コレは、余所の魔女か、あるいは聖女からの『お手紙』よ」

「まったく、一体何の用かしら……」と言いながら、ちょん、と小さな指でその『お手紙』とやらにメィリアが触れると、鳥を模したその頭部から声が発せられた。

「はじめまして、Pの魔女。私は連合王国所属の対魔の聖女。差し出がましいとは分かっているのですが、折り入って貴女にお願いしたいことがあるのです」

 メィリアと大差のない、幼さを含んだ少女の声。声の主の姿を見ていない以上、正確なことは分からないが、どのような少女であるのか少しばかり気になってしまう。

 声の主に少々興味を惹かれた僕とは違い、「……対魔の聖女、ね」と呟くメィリアの表情は何時も浮かべている笑みではなく、明らかに不機嫌なものだった。

「あの、メィリアさん。対魔の聖女とは一体、何なのですか?」

 不機嫌な表情を浮かべる原因となったと思しき「対魔の聖女」とやらを知らない僕は、彼女にそう訊ねてみる。

「……あたしや貴方を苦しめかねない、対魔女、あるいは聖女用の拷問器具を作る者のことよ。国の配下に居るから一応は『聖女』の括りだけれど、やっていることは魔女ね。正直、相性が悪いからかかわりはあまり持ちたくないの」

 はぁ、と珍しく溜め息を吐くメィリア。だが、言葉を発した物は『お手紙』なだけあり、続けてソレから発される声は、こちら側の意図を全く汲み取りはしない一方的なものだった。

「私は、大好きな彼を手籠めにしたいと願うのです。私にその身を委ねてほしいと望むのです。彼をどろどろに甘やかして、私だけを見てほしいと祈るのです。いっそ私だけのことで頭をいっぱいにして、何一つ考えられないくらいになってほしいのです」

 顔も合わせたこともない他者に身の内を吐露するなど。この声の主は一体どういう神経をしているのだろうか。まるで別人のような劣情を内で蠢かせる僕でさえ、その思いを吐露したことは無いというのに。

「だから、どうか一番近くの町まで下りて、私の『お手付き』の誘いに乗ってください。そうすれば、貴女ともう一方の身の安全を、約束いたしますから」

 その言葉が最後だったのか、鳥を模した『お手紙』は自ら散り散りに破れ、霧散する。

「そう。貴女は、Pの魔女に約束してしまうのね」

「――え?」

「さぁペチュニア。お着替えの時間よ!」

 意気揚々と叫んだメィリアは僕の前で「お手伝いしてくれる?」と、大きく両腕を広げ笑う。ぐっと腕を伸ばしているため、彼女の着るワイシャツの裾が僅かに上がっており、秘されるべき太腿が陽の下で堂々と晒されていた。

 まさか彼女、この誘い、否、罠に自らかかりに行くというのか。

「貴女、まさか安全が約束されているからといって、町へ行くのですか!」

 思わず口調を荒げ、彼女の小さな肩を強く掴んでしまう。だが、彼女は痛みで顔を歪めることも、怖気づくこともなく、落ち着いた笑みで僕を見上げた。

「魔女や聖女間の『約束』は絶対よ。破れば、それ相応の罰を受けさせられる。少なくとも、あたし達と共に在る精霊たちは嘘を吐かないし、『約束』も守るから、それに準じた仕組みが、この世の節理として成り立っているの」

 「約束」を破れば罰を受けさせられる。そういう制度、仕組みだったとしても、僕は彼女のことが心配で仕方がないのだ。例え強い力を持っていようとも、彼女をこれ以上穢したり、欠けさせたりしたくのない自分からしてみれば、避けられる戦闘は避けるべきなのだ。それが、対魔女、聖女用の拷問器具を制作する退魔の聖女からの罠(誘い)であるならなおさらのこと。

「なぁに? ペチュニアはあたしの身を案じてくれているの?」

 やわやわ、と僕の頬をなぞるメィリア。その表情はどこか、僕の心を試すような、意地の悪い笑みだ。

「……さあ。どうでしょうね」

 意地の悪い表情を浮かべるメィリアに対し、素直に「逃げましょう」と言えない僕は、持っていたロリータドレスを下ろし、彼女が着ているワイシャツのボタンに手を掛ける。それと同時に、僕の内で蠢く劣情が鎌首をもたげ、「触れたいだろう」と誘うのだ。

 日差しを知らない肌の色に。老いることのない張りのある皮膚に。女性らしい凹凸のない柔らかな肉に。触れたいだろう、と。

 だが僕はその誘いを殺し、その白い肌を目の前に晒す。

 彼女は永遠であり、完璧であるべき存在。故に、一方的な劣情に駆られて触れたり、ましてや性的対象として想ったりするべきでは無い。そう、見てしまってはいけないのだ。


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