そして、現実は簡単に沈没す

 会話の内容もまともに頭に入っていない。

 隣の彼女の手を握り、電車にごとごと揺れる帰り道。外はもう真っ暗だった。気持ちがほわほわしていて、今なら空にも浮かべる気がする。

 隣の彼女を見る。彼女が気づき、微笑む。

 それだけで幸せだな、と思えるのだった。

 安い幸せ。でもそれこそが私の求めていたもの。やっと手にした温かさだった。

 

 もうすぐで凪沙の最寄り駅に電車が着く。

 彼氏……ではないけど、家まで送っていくべきか。と思ったが、彼女は「いいよ」と微笑み、私の提案をやんわり断る。

 そういえば私の家に彼女が泊まったことはあるが、凪沙の部屋を訪れたことはない。どんな部屋かもまともに聞いたことがない。

 気になる。

 け、けして邪な気持ちじゃない。彼女なんだから、彼女の暮らしている場所が気になるのは当然のことで、興味ない方が失礼だった。

 どんな場所で凪沙はいつも暮らしているのか。凪沙の家での様子……見てみたい。

 そう妄想するも、すぐに降りる駅についてしまった。

 「また明日ね」と約束をし、彼女はホームへ降りる。

 今、思うと私が思ってしまったからなのかもしれない。

 その願いはすぐに実現されることになるのだが、そんな未来をつゆ知らず、私は遠くなる彼女に小さく手を振り続けた。


 見慣れた駅前の通りの街の明かりも、今日は煌びやかに輝いている。

 歩きながら、そっと唇に指を置く。

 その動作だけで顔が熱くなる。

 まだ感触は覚えている。一生忘れることはできなそうだ。

 もう不安もなく、希望に満ち溢れている。

 夢じゃないよね?うだうだ悩んでいた頃が懐かしい。

 明日は何を話そう。何して遊ぼう。ワクワクは止まることを知らない。

 

 家に着いた。 

 一人でいる時間も彼女のことを考えるだけで憂鬱じゃなくなる。

 だから、元気よく扉を開け、足を踏み出す。

 明日への一歩。

 ぴちゃり。


「へ?」


 予想だにしない音が鳴った。

 音がしたのは下だった。

 急いで、足元を見る。

 水だった。


「え」


 そこは私の部屋なのに、一面、水が薄く広がっていた。

 床が水浸しだった。


「えっ、え、ええ」


 見慣れない光景に呆然とする。

 天井を見る。

 水がポタポタと落ちていた。

 上の階からの浸水。

 だらしなく口を開ける。

 ……あ、そうか、夢だったのか。私の家が水の都になるはずがない。

 落ち着け。深く深呼吸。

 うむ。

 目の前のありえない出来事に逆に冷静になる。


「うん、まずは大家を呼ぶとするか」


 私のオアシス、というほどでもないけど、私の部屋が一日にして崩壊して、沈没したのであった。

 豪華客船に乗ったわけではないし、BGMも流れて沈んでいくわけではないし、航海に出て大嵐に直面したわけではないけど、当たり前の生活というものは簡単に揺らぐ。

 人生はそう簡単にうまくいかない。

 幸福の向こうには不幸が潜んでいる。幸せの次には災難がやってくる。

 ただその不幸も、幸福への架け橋なのであるが、その時の私が気づけないのも仕方なかった。


「大家さんの電話番号、どれだっけ?」


 

                             ~第三部へ続く~

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