第4章 消せないキモチ⑥

 ボールが空高く打ちあがる。白球は空に吸い込まれて、消えていくと思ったが、やがて失速し、地上に落ちていく。


「あー」


 外野手のキャッチと共にため息がこぼれる。坊主の少年たち、といっても私と1、2歳しか変わらない高校球児がこの炎天下の中、真剣勝負をしている。


「もう。食べてすぐにごろごろしていると太るわよ」


 お昼の素麺を食べ、ソファーで寝ころびながらテレビで甲子園を見ている娘を注意する母。


「太らないって」


 寝ころんだまま私は抗議する。


「あら本当、むしろあんた痩せた?」

「うーん、どうだろう」

「ご飯はちゃんと食べているの?」

「……食べているよ」

「その間は何よ、その間は」


 昼、夜は欠かさず食べているが、コンビニやスーパーの弁当ばかりで「ちゃんと」と言われると肯定できない。


「どうせ自炊はしないんでしょ」


 その通りだよ、我が母。


「はあ、もっと手伝いをさせておくべきだったわ。こんなんじゃお嫁にいけないわ」


 娘の前で後悔しないでくれ。できないものはできないのだ。練習すればできる?それまでどれだけの食材を無駄にすればいい?

 バットが空を切り、三振。スリーアウトになり、攻守が交代する。


「あんた、野球なんて好きだったっけ?」

「別に」


 久々の我が家だというのに、特にすることがないのだ。外に出るのは暑いし、大学生には宿題があるわけではなく、勉強する気も起きない。父親も朝から「障害が発生した」と言い、飛び出していった。ただ父親がいたからといって、一緒に出掛けることもないのだが。


「大学は楽しい?」

「うん、楽しいよ。文化祭の実行委員会もやったし」

「あんたが実行委員?どういう風の吹き回しよ、かっこいい先輩でもいたの?」


 実の娘にひどいことをいう親だ。


「何かしたいと思ったの」

「そう、大学生になると変わるのね」


 高校まで部活に入ったり、習い事をしたり、何かに取り組んだことはあった。でも、それは他人に誘われ、親に言われやったもので、受動的に行ったものだった。

 そんな私が、文化祭に関わるなんて親からしたらびっくりだろう。基本的にやる気がない娘が。

 ただ、文化祭に関わったのも「凪沙」がいたからだ。自分から動いたことは確かだが、自分は引金を引かれただけ。


「ちょっと綺麗になったわね」

「ちょっとって。もっと褒めなさいよ」

「嫌よ、こんな小娘を褒めるなんて」


 私にはまだまだ敵わないわよと勝ち誇る母親。自信家なことで。

 綺麗に、か。

 彼女の前ではできるだけ綺麗な自分でいようとした、努力をした。彼女の隣にいるのが相応しいように。

 母がフフフと微笑む。


「もしかして恋でもしたの?」


 ぎくりとする。

 恋、していた。


「あらあら、その反応は。サークルの先輩?同級生?誰なの?」

「違うって」

「もしかしてもう彼氏がいるの?」

「彼氏なんていない」


 彼女はいた。

 なんて、言ったら母親はどんな顔をするだろうか。

 ただもう過去の話。

 彼女が、凪沙がいたのは過去の話。私が終わらせた幻想。


「まあ、いいわ。お父さんは希依が男に恋しているなんて知ったら、どういう反応するかしら」


 そう楽しそうに笑いながら、母はリビングから出ていった。

 ボールがファーストに投げられ、試合が終わる。選手が泣きながら、集まり、野球帽を取り、頭を下げる。

 野球帽。ハッとする。

 勝った高校球児たちが校歌を歌い出すが、歌詞は耳に入ってこなかった。

 兄も野球をやっていたのだろうか。

 場所が離れようと、簡単に忘れられるものではなかった。


「お母さん、出かけてくる」


 掃除機をかけている母に聞こえるように、大声を出す。


「夕飯には戻ってきなさいよ」


 気を紛らわすために歩き出す。それが目的もなく、意味がなく、外が暑かろうと、ただただ歩くしかなかった。

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