第4章 消せないキモチ⑦

 セミの合唱に耳が刺激され、暑さの不快感が増す。

 よくこんな炎天下で球児たちは野球をやっていられるなと感心する。1歳しか変わらないのにその情熱に敬意を示す。

 目的地なんてなかったが、とりあえずこの暑さから避難しなくては干からびてしまう。

 ペダルを強く踏み、自転車を加速させ、風を切る。

 私の地元。

 でも4か月近く離れただけで別の街に感じる。違和感。18年間住んでいた街。でも今はあっちがホームで、こっちは私の場所ではなかった。

 過ごした思い出も、色々な気持ちも忘れてしまうのかもしれない。

 良く通った本屋が潰れている。

 新しいコンビニが出来ている。

 知らない人、知らない場所。

 世界は容易く変化していく。

 そう、気持ちなんてすぐ風化してしまうんだ。

 

 お盆であるから休みかと思ったが、幸いにも図書館は開いていた。特に調べたいものもなかったが、暑さから、現実から逃げるにはちょうど良い。

 中に入ると人は少なかった。

 わざわざお盆に図書館に来る人なんて希少種だ。皆、田舎に帰ったり、何処かに出かけたりするのだろう。

 少しの間、自転車をこいだが、誰も知り合いに会うことはなかった。地元に友達はいたが、どれも上辺だった。高校は遠くまで通っていたため、地元の友達とは疎遠になっている。

 今、あの時の友達が何をしているのか、大学に行っているのか。何処にいるのかわからない。

 むしろ私の方が謎キャラだろう。誰も私の行方なんて知らないし、気にも留めない。自分で言って悲しいが、それが現実だ。卒業しても友達だよ、なんて嘘だ。

 アドレスが変わっていなければ連絡できるが、そうしないのは別に会う必要がないと思っているからだろう。相手から連絡がないのもそう思っているからだ。

 宛先が無くなれば、私たちはもう出会えない。

 出会うことはないのだ。

 だから、居場所を求めたのか。私だけの場所を。


「……」


 さっきから小説が一ページも進まない。

 物語の世界に入れず、余計なことばかり考えてしまう。

 どんな推理小説よりも難解で頭を悩ませる。

 汗は乾いたが、涼しい気持ちにはなれなかった。


 小説を読む気にもなれず、深海魚の図鑑を見て、へー、うへーと感心しながら時間を過ごしていたが、30分もしたら飽きてしまった。

 そういえば水族館に行く話も当初していたなと思い出し、頭を振り、消し去る。

 油断するとつい『彼女』との話を思い出してしまう。

 駄目だ、駄目なんだ、忘れるんだ。

 ―彼女から何度か連絡は来ていた。

 けれどもメールも電話も私は一度も出ていない、確認していない。

 出る意味なんてもう無い。出る資格なんてない。出なければいつか諦めてくれる。

 そうなのだろうか。

 同じ大学に通っているのだから、いつかまた会うだろう。すれ違うこと、同じ授業を受けることだってある。

 一緒にご飯を食べることは、もう無くなるのか。

 その事実に寂しさを覚える。

 関係を断ち切ることは、彼女と彼女の関係を辞めるだけではない。友達でいることも捨ててしまうのだ。

 心を許した友達。友達以上になってしまった友達。

 そして、わかっていた、否定できなかった。

 まだ迷っているという事実。


「あっ」


 携帯を手に持っていたら、思わず届いたメッセージを開いてしまった。その動作は無意識で、でも私の中の私が望んでいたことかもしれない。

 目に入ってしまった。

 凪沙からのメッセージ。


『会いたいよ、希依』 


 見た瞬間の私の顔はどんな顔だったのだろう。

 体は勝手に動いた。

 本を急いで片付け、図書館を飛び出した。



「あああああ」


 自転車を漕ぐ。海の見える道を何処までも漕ぐ。

 言葉にならない声を上げ、必死に走る。

 彼女を諦めるため、忘れるため、彼女の存在を消すため。


「うわあああ」


 傍から見たら変な女だ。通報されても仕方がない。

 感情がぐちゃぐちゃになる。

 嫉妬した。辛かった。

 兄という存在を、彼の代用品であったという事実を無くしたかった。

 こんな思いをするなら、恋なんてしなけばよかった。彼女に出会わなければよかった。

 だから、選んだ。選んだのに。

 だけど、凪沙への思いは消せなかった。

 離れても、忘れようとしても駄目だった。

 『会いたいよ、希依』 

 彼女の言葉に、文字だけで私の思いは揺らぐ。

 寂しくないフリをして、心が寂しさに押し潰される。


「ああ……」


 必死に漕いでも漕いでも体から出る水は止まらない。

 目から溢れる汗が止まらない。

 彼女に会いたかった。

 彼女の声を聞きたかった。

 やっぱり無理だった。

 離れようとしても諦めきれなかった。

 嘘なんてつけなかった。


「なぎさああああ」


 彼女の名前を叫ぶ。

 思い出すのは、彼女の小さく笑う声。浮かぶのは、私の心を誰よりも温かくする向日葵みたいな笑顔。

 自分の気持ちを偽ることなんてできなかった。



 夕暮れの海辺の公園の草の上に寝ころび、息を整える。

 どれだけ走ったのだろう。体中が悲鳴を上げ、もう動けない。

 全速で漕ぎ、全力で叫び、全開で泣いた。

 心は吹っ切れ、清々しさを覚える。

 もう心は決まってしまった。わかってしまった。

 方法なんてわからない。克服できるのかもわからない。

 もっと苦しむかもしれない。辛い思いをするかもしれない。

 それでも立ち向かうしかなかった。逃げても、離れても無駄だった。

 君だけは消せなかった。

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