第3章 魔除けのおまじない⑥

「お、お邪魔します」


 いまだ鼻をひくつかせながら、恐る恐る私の家の敷居をまたぐ。

 大学の友達を家に上げるのは初めてだった。両親が引越しの手伝いで来たぐらいで、私のパーソナルな空間は誰にも侵略されていない。

 だが、そんな私だけの場所だった部屋に、三澄さんがいる。


 バスに乗り、駅前についても彼女は泣き止まなかった。

 泣いている彼女を置いて帰るほど私も薄情じゃない。

 薄情ではないが、彼女の家まで送っていくのは正直、面倒だ。それに泣いている彼女と一緒にいると周りからの視線が痛い。

 痴話喧嘩、迷子のお守り、どう見えるか判断は委ねるが、注目の的なのは間違いない。

 だから選択肢はなかったのだ。

 「うちくる?」と尋ねるのもしょうがないことなのだ。



「座っていいよ」


 立ち尽くしている彼女に助言する。

 私の顔をちらりと見て、壁を背に部屋の隅に座る。


「そんな隅に座らなくても」


 クッションをちゃぶ台の前に置き、前に来るよう彼女を促す。

 ゆったり立ち上がり、クッションを持ち上げ、抱くような形で床に座る。意図とは違うが、まぁ良しとしよう。

 何分、一人暮らしの家に人を呼んだのは初めてだ。どうOMOTENASHIしたら良いかわからない。紅茶やコーヒーを出した方が良いのか。生憎うちには麦茶か水道水しかない。


 台所から戻ると、クッションに顔を押し付けている三澄さんがいた。


「何しているの?」


 私の声に反応し、がばっと顔を上げ、こちらを見て、首を横にぶんぶん振る。

 何が違うというのか。

 顔を押し付けていたからか、顔が真っ赤である。


「つまらないものですが」


 本当につまらない、ただの麦茶をちゃぶ台の上に置き、対面に私も座る。

 コップを手にし、「ありがとう」といい、ちびちび麦茶を飲む。

 まだ鼻がずるずるである。

 その状態でクッションに押し付けたのかと苦笑い。ティッシュ箱を床からちゃぶ台に置き、使っていいよと伝える。

 鼻をかみ、三澄さんも落ち着いたので、話し始める。


「ごめんね、怖い思いさせて」


 不思議そうな顔をした。


「何で、榎田さんが謝るの?」

「私が三澄さんを文化祭実行委員会に誘ったから」


 私が準備を手伝わなければ、私が土日に行かなかったら、私がいなかったら怖い思いをすることはなかった。

 私が檻から出した。外の世界にはたくさんの仲間がいるよ、楽しいよと誘いだした。でも外には怖いことが待っていた。

 だから、謝るのだ。

 檻から出したのは正解じゃなかったかもしれない。世界は優しさに満ち溢れていない、厳しさも、悪意も含んでいる。檻の中ならそれは無関係だった。

 実行委員会を辞めるのも私は止めない。

 もう今まで通りができない。


「でも、選ん、だのは、私だから」


 選択肢を与えたのは私だ。

 彼女がパーカーのフードをおろす。真っ直ぐな眼で私を見る。


「私が、帽子を被っているのがいけないから」


 目を大きく見開き、否定する。


「違うよ」

「違わない。私が間違っているから」

「間違っていない。怖い思いをさせたのは私のせいだから」

「違う」


 強い否定。


「榎田さんの怖いは違う」


 私の「怖い」が違う。

 男に絡まれた。殴られそうになった。その怖いではない?


「私の怖いは、榎田さんが傷つくこと」


 彼女の言葉が理解できなかった。


「榎田さんが怪我するのが、悲しむのが、辛い思いするのが」


 なんで。


「怖い」


 意味がわからなかった。

 理解できなかった。

 …優しい、何て優しい子なのだろう。

 自分のことはお構いなしで、私の心配をしている。

 そうだ、そうなんだ。

 だから、彼女は私が殴られた後、男に立ち向かったのか。悪意に一人で。怖さを消すために。私がこれ以上傷つかないように。


「ははは」


 何て不器用な子なのだろうか。

 あんなに泣いていたのは、悪意に晒されて、暴力に屈して泣いたのではない。

 私の傷に泣いた。私の痛みに泣いた。


「馬鹿なの」


 もっと自分の心配をしろよ。私が勝手にやったことに責任を持とうとするな。

 立ち上がり、彼女の前に正座する。


「え、えのださん?」


 突然、前に来た私に彼女は動揺する。


「ありがとう」


 そっと彼女を前から抱きしめた。


「えのださん!?」


 上ずった声が聞こえるが、気にせず抱きしめる。

 温かい。

 人を抱きしめるのは温かい。

 抱きしめていると彼女も動揺がおさまったのか、呼吸が落ち着いてきた。相変わらず、密着した身体から心臓のバクバクは聞こえるが。ただその心臓音は私なのか、彼女なのかわからない。


「榎田さんは」


 彼女が私の耳の側で囁く。こそばゆい。


「何処にもいかないよね?」


 その言葉の真意は理解できなかった。

 榎田さん「は」。

 誰かは何処かに行ってしまったのか。無くなったのか、亡くなったのか。

 それは彼女の兄なのか。それとも別の誰かなのか、わからない。

 何が正解か、わからない。


「何処にもいかないよ」


 でも少なくとも私の今の気持ちはこうだった。



 5分間ぐらい抱きしめていたら、徐々に恥ずかしさを覚えた。

 私が動いたら、彼女もびくっと反応し、申し訳ない気持ちで私は離れていった。


「ご飯食べようか」


 彼女の眼を見られずに宙に向かって話しかける。


「う、うん」


 台所に行き、冷蔵庫を開ける。

 空っぽだった。

 棚を漁るも見つかったのは、カップ焼きそばのみ。

 仕方なく、「これでいい?」と尋ねると返事は苦笑いだった。

 女子力偏差値は下がるばかりであった。

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