第1章 帽子女と二人組⑤

 私のキャンパスライフのキャンバスはまだ真っ白であった。

 私は相変わらず部活はもちろん、サークルにも入らず、かといって1年生からゼミに入るほど勉強熱心なわけでもなく、ただぼんやりと過ごしていた。

 でも、真っ白だけど光は射していて、その日が来るのをどこか期待していた。


 そして、その日。

 帽子女、今はフード被り妖怪の三澄さんと一緒の授業の日がやってきた。

 今日の三澄さんは灰色のパーカーを深く被っていた。

 下を向いてばかりでこちらを向いてくれない。

 いっそサングラスにマスクでもかけさせれば、彼女の恥ずかしさは改善されるのだろうか。とても怪しい格好になるが、それも仕方なしという状況だ。

 仕方がない。仕方がないのだ、誰かが手を伸ばしてあげなければ。

 それがたまたま私だっただけだ。


「このままだと単位に支障が出るから」


 そう言って私は三澄さんに紙袋を渡した。

 彼女は少し顔を上げ、紙袋を受け取り、中身を見る。


「野球帽よりは似合うと思うから」


 三澄さんは中を見て固まっている。

 後は彼女がどうするかだ。

 これでも変わらないなら私はいよいよ三澄さんをサングラス、マスクスタイルにするか、目出し帽の強盗スタイルに変身させるしかない。犯罪臭のする三澄さん、そんな姿は天使に似合わない。

 陽の下で歩いてこその天使だ。

 

 ざーざーっと水の玉が空から落ちてくる。

 朝から今日は雨だった。

 雨だと気持ちが重い。低気圧だと、気分も低くなる。主に学校に行くのが面倒くさいという理由なのだけれども。

 でも、今日は少し違った。

 大学までの道のりを、傘をさしながら歩く。

 大学前に着くと音を立てていた雨の声が小さくなっていた。

 空を見上げると、日の光が目に入り、眩しい。

 傘を閉じ、雨の止んだキャンパスに一歩踏み出す。


 授業は始まっていたが、三澄さんはまだ来ていなかった。

 余計なお世話だったかな。

 講義を聞きながらシャーペンの上部を押すがなかなか芯が出てこない。これは詰まっていて、分解しなきゃいけないパターンだと、ため息をつく。

 教室の後ろの扉が開く音がした。

 私はシャーペンと格闘していた。

 周りがざわざわとし出し、私もやっと違和感に気づく。

 後ろを振り返る。

 そこには美少女がいた。

 白色の、赤い花のワンポイントが入ったキャスケットを被り、淡い水色の服を着た清楚な印象の女の子。

 あんな子いたか?誰あの子?と周りがひそひそと喋っている。

 でも、私は知っていた。

 私だけが知っていた。

 突如現れた美少女は教室内をゆっくりと歩き、私の隣の席に座る。


「おはよう、三澄さん」


 私は彼女に声をかける。

 格好は変わっても相変わらずの小さい声で、


「あの、ありがと」


 そう私に感謝を述べるのであった。

 言い終わると三澄さんはもじもじとし、下を向く。

 変わっていない、やっぱり三澄さんだ。

 私はそんな三澄さんをしばらく眺めていたが、葉子ちゃんの声で我に返る。


「それではグループワークの時間です」


 周りが騒がしくなる。


「今日の作業を始めようか」


 彼女が俯きながらも私の顔を見る。


「うん」


 ただ一言、彼女は肯定する。

 でも、それが、私たちにとって大きな一歩であって。

 彼女の中で何かが変わった瞬間であったのだ。


 ぎこちない会話ながらも、今までは考えられないほど授業の課題をこなすことができた。

 会話のキャッチボールができるだけでこんなに違うのか。

 今までにない授業の進捗具合に私の気分は晴れ晴れとしていた。

 芝生の上を歩く私の足はいつもより軽い。もう何も怖くないわ!

 そんな気分でふと池を見ると、私のあげた帽子を被る三澄さんが池の側に立っているのを発見した。

 自然と彼女の元に足が動き、躊躇わずに彼女に声をかける。


「どうしたの?」


 三澄さんが私の声に気づき、振り返る。


「これ」


 三澄さんの手には濡れた野球帽が握られていた。


「流されて、たどり着いたんだね」


 彼女が頷く。

 せっかく帽子あげたのに、野球帽が戻ってきちゃったか。私のプレゼントした帽子もこれにてお役御免で、短い命となるわけだ。


「あげたの、いらなくなちゃったね」


 残念という気持ちを出さないように、私が軽い感じで答えると、三澄さんは首を強く横に振り、否定した。

 突然の否定に驚く。

 そして彼女は野球帽を私に向かって突き出してきた。


「いる?」


 いる?この帽子を、私に?


「大事なものじゃないの?」

「私にはこれがあるから」


 そういって被っているキャスケットに手をあてる。

 これがあるから。

 これも大事なものと思ってくれているのか。

 嬉しい、という感情が私の心を温める。

 ・・・でも、正直この野球帽はいらない。

 だって野球少年でもないし、濡れているし、それにあまり綺麗とはいえない池に浮いていたわけだし。でも、いらないって言ったら三澄さんは悲しい顔をするんだろうな、うーん。


「じゃあ貰っとこうかな」


 私も人がいいと思う。彼女から野球帽を受け取る。

 あーどうするのこれ、被る機会ないんだけどな。

 華の女子大生が野球観戦・・・。大学野球、うん、ない、部屋のオブジェ行きかな。

 三澄さんは帽子を渡して満足なのか、「じゃあ」と小さく言って歩き出す。

 去る彼女の背中を見ていると、彼女はふいに立ち止まり、振り返った。

 そして。

 私を見て小さく手を振った。

 時間にして数秒。

 手を振り終わった三澄さんは足早に去っていった。

 私は口が半開きのまま、固まっていた。


「はは」


 手を振る三澄さん。そしてその顔を思い出す。


「何だ笑えるじゃん」


 右手にちょっと湿った帽子を強く握りしめて、私も笑うのであった。

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