第2話 志乃【名に同じ志】


畳の、いぐさの香りが好きだ。

特に雨の日には、その香りが増すような気がしていた。


弓道場は、射場側が解放されている。

普段はシャッターで閉じられているのだが、使用する時にはすべて開ける必要がある。

晴れの日も風の日も、雨の日も。

ほとんどの道場は湿気を防ぐために板間いたまになっているのだが、葵高校が使う市立弓道場は、射場以外のすべてに畳が敷かれている。


(雨の日の弓道場って、格別)


まだ17歳、高校2年生の志乃にとって、毎日放課後、サボらずに弓道場に足が向くのは、立ちのぼるい草の香りが楽しみだったからだ。

そしてもうひとつ。

彼だ。



「竹下、看的かんてき頼める?」


まだ弓道場に着いたばかりの志乃に無表情でそう頼んだのは、学科は違うが同学年の、天野総志あまの そうしだ。

看的とは、的のかたわらで矢が命中したかどうかを確認する役目のことで、総志は志乃にその役割を頼むことが多い。

普通に考えれば、看的当番は退屈な作業だ。

それでも、誰もが振り向くこの美しい男を、誰にも疑われずに見つめることのできるこの役割が、志乃には嬉しかった。


「それが人にものを頼む態度ですか」

大きな目を細めて総志にそう言い放った後、決まって総志が目を伏せながら小さく微笑むのが、二人のいつものお約束だった。

「着替えるから待ってて」

そう続けると、志乃は女子更衣室に急いだ。

この男のこの笑顔を引き出すまでに、志乃は目がくらむほどの長い時間を費やした。



1年の始め、新入生全員が同じタイミングで弓道部に入部したというのに、総志は新入生が知らぬ間に、選抜メンバーの一人として先輩と肩を並べて弓を引いていた。

誰かからの噂で、彼が中学生の時から弓道をしていて、大会でも好成績をとる有段者だという話を聞いた。

(どうりで……)

この男には、癖がない。

弓道初心者の志乃にでもわかるほど、この美しい男の弓は、美しかった。

すらりと長い身長と、長い四肢。

程よく体についた筋肉。

袴がよく似合う男だ。

無口で、感情を表に出すこともない。

あまり友達がいるようには見えなかったが、だからと言って一匹狼のようなタイプでもなかった。

男女問わず、自然と周りに人が集まる、不思議な魅力を持った男だ。


葵高校は、文武共に優れている所謂いわゆる名門校で、特に弓道部は全国大会の常連だった。

そのため部員数が多く、部内での選抜も厳しい。

もちろん古武道である弓道は上下関係や礼儀作法にも厳しく、脱落者が多いのも事実だ。

そんな中でも、志乃は部活に通うのがとても好きだった。



「名前に同じこころざしを持った人だなって」

1年の3学期、どうして自分にばかり看的を頼むのか、と質問して返ってきた答えが、これだった。

「……え」

予想していたどれにも当てはまらない答えにすっかりたじろんでしまった志乃が、顎に手を当てて考えていると、「志乃」と名前を呼ばれ驚いて顔を上げる。

「俺の名前にも、がついてる」

やっとこの男の意図していることが理解できて、しかし何と返して良いか咄嗟にわからず口ごもっていると、ふ、と総志が優しく微笑んだ。


その瞬間だった。



志乃は、この男に恋をした。


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弦の波紋 秋月 糸 @coco-t

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