第35話 アップルパイでお茶会を
ミカはベッドの上で寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。
時計の音に混じって、くうくうと小さな音が鳴っている。
彼女の腹の虫が鳴っているのだ。
ろくに食事をしないまま大広間を飛び出してきてしまったせいで、彼女の胃は空っぽの状態なのである。
食事の時間は既に終わっている。今大広間に行ったところでパンのひとつも残ってはいないだろう。
育ち盛りのミカにとって、この状態はなかなかに辛いものだった。
ひょっとして自分はこのまま空腹で死ぬのだろうか、という思いが彼女の脳裏をよぎっていく。
人間何も食べなくても三日くらいなら生きるらしいが、彼女は人間が存外しぶといということを知らない。
明日の朝死ねてたらいいな、と考えつつ、彼女は目を閉じた。
コンコン。
誰かが部屋の扉を叩いている。
コンコン。
「ミカさん。いらっしゃいますか?」
アレクの声だ。
ミカはぴょこんと跳ね起きた。
アレクが部屋の外にいる。
その事実は、ミカを裸足のまま扉へと向かわせた。
そっと、扉を開くと。
扉の前に、銀のトレイを手にしたアレクが立っていた。
「お邪魔しても宜しいですか?」
「う、うん」
扉を開いてアレクを招き入れる。
アレクはゆっくりと部屋に入ってくると、トレイをテーブルの上に置いた。
トレイには、大きな皿に盛られたアップルパイとティーポットが載っている。
取り分ける用の小皿は二枚。フォークも二本ある。カップも二人分だ。
「ミカさん、お食事を済ませないで席を立ってしまわれましたよね。お腹が空いていらっしゃるのではないかと思いまして」
用意してあったナイフで、アップルパイをさくさくと切り分けていく。
ごろりとしたりんごがたっぷりと詰まったパイの断面が顔を覗かせる。
「アカギに頼んで特別に焼いてもらいました。ささやかですが、お茶にしましょう」
わざわざ、そのために来てくれたの?
小皿に盛られるアップルパイとアレクを見比べて、ミカは口元に手を当てた。
唇が笑みの形になっていくのが止められない。
どうやら、このサプライズプレゼントは彼女にとってかなり嬉しかったようだね。
「どうぞ」
椅子に座るミカの前に、アップルパイが差し出される。
アレクは慣れた手つきでカップに紅茶を注ぎ、砂糖を入れて彼女の前に置いた。
そして自らもミカの向かいの席に腰を下ろし、紅茶を一口含む。
「冷めないうちに頂きましょう」
にこりと微笑みかけられて、ミカはこくりと頷きアップルパイを頬張った。
口の中一杯に広がるりんごの甘みと生地の香り。
思わず、呟いていた。
「……美味しい」
「焼きたてですからね」
りんごを食べながら、アレクは笑った。
「それに、貴女と一緒に食べるから一層美味しく感じられる」
「…………」
かぁっとミカの頬が赤くなった。
ミカは照れ隠しするようにアップルパイを口一杯に詰め込んだ。
紅茶で喉の奥に流し込んで、ゆっくりと深呼吸をして、問いかける。
「アレク、レンさんとのお話、終わったの?」
「……ああ」
話のことを思い出したのか、アレクの表情が微笑み顔から微妙に変化する。
彼は僅かに首を振り、言った。
「大した話ではありませんでしたから」
「……そう」
アレクがレンと何の話をしていたのか、ミカにとっては気になることではある。
でも、訊いてはいけないような気がしていた。訊くことによってアレクが傷付くのではないかと、そんな風に思えたのだ。
「……僕は、守りたいものを守るために此処にいたい。誰かに言われたからってそれを変えるつもりは全くないんです」
アレクはミカの顔を見つめて、ぽつりとそう呟いた。
紅茶を飲んで、ふっと笑い、大皿のアップルパイを手で示した。
「おかわりは如何ですか? ミカさんのために御用意したものですから、たくさん食べて下さいね」
「……うん」
旅館の夜は更けていく。
二人は大皿のアップルパイがなくなるまで、ささやかな会話を楽しみながら二人きりの時間を過ごしたのだった。
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