第36話 本当の気持ち

 その日の朝は普段以上に多忙を極めていた。

 団体客が訪れたのである。

 齢十五歳くらいの男女、総勢三十人。皆同じ服装をしており、荷物の類は一切持っていない。

 これは……あれだね。クラス転移というやつだ。

 学校に通う学生が、一クラス丸ごと異世界に召喚されてしまったパターンである。

 この旅館に団体客が訪れることはたまにあるのだが、ここまで大口の来客は珍しい。

 アレクはローゼンと共に、彼らの案内に追われていた。

 その様子を、ミカはいつもの椅子に座って眺めていた。

 手伝ってあげられれば、彼の負担が少しでも軽くなったかもしれないのに。

 そんなことを考えながら、ふぅと溜め息をつく。

 その彼女を、遠くから見つめている女が一人。

 レンだ。

 レンは相変わらずの厳しい顔をミカに向けて、腕を組みながら壁に寄りかかっていた。

 どうやら彼女は、ミカに対してあまり良い思いを抱いていないようだね。

 そりゃ彼女からしたら、アレクの愛情を一身に受けているミカは面白くない存在なんだろうけれど。

 近いうちに彼女たちの間で何かが起こりそうな、そんな気がするよ。私は。

「あーっ、疲れたぁ」

 ようやく人がはけたカウンターに突っ伏して、ローゼンははぁっと大きく息をついた。

「久々の団体様の相手は苦労するよ。あいつら人の話を全然聞いてないんだもん」

「大切なお客様に向かってあいつら呼ばわりするんじゃない」

 アレクはローゼンの後頭部を軽くこづいた。

 ローゼンは顔を上げて、たまたま目が合ったミカに向けて手をふりふりと振った。

「ミカちゃん、今日もお前のこと見に来てるね。毎日毎日、健気だねぇ」

 ミカの名前が出たので、アレクはミカの方に目を向けた。

 微笑みかけると、ミカは恥ずかしそうに俯いた。

「で? お前たち、昨日は何処までやったの」

 ローゼンの唐突の質問に、アレクはぎょっとして持っていた台帳を床に落とした。

「お前、アカギにわざわざアップルパイ焼いてもらってミカちゃんの部屋に行ったんだろ? 女の子と部屋で二人きり、何もなかったとは言わせないぞ」

「……な、急に何を言い出すんだ。僕はただ……」

「キスくらいはした? それとも押し倒した? アレクも男だもんな、そういうことのひとつやふたつ、ないわけないよなぁ」

「変なことを言うなっ」

 アレクは珍しく狼狽した様子でローゼンの言葉を遮った。

 落とした台帳を拾い、叩き付けるようにカウンターの上にそれを置いて、続ける。

「昨日は二人でお茶をしただけだ! 不埒なことは何もしていない! 本当だ!」

「けど、そういう欲がないわけじゃないんだろ?」

 ローゼンは引かない。にやにやと笑いながら、言う。

「あの子の全てが欲しい、誰かの手に渡る前に食っちまいたい、お前だってそう考えることがあったはずだぜ? 聖人君子じゃあるまいし、隠す必要なんてないと俺は思うけどなぁ」

「…………」

 アレクは口を噤んだ。

 それは、彼にそういう心当たりがないわけではないという何よりの証明でもあった。

 アンデッドは基本的に己の欲というものに忠実な存在だ。

 普段から物事をしっかりと弁えているアレクにも、そういう部分がないわけではない。

 しかし、アレクは良くも悪くも真面目だ。彼は、自分が此処のホテルマンだからという理由で、その想いに蓋をし続けていた。

 アレクにとって、ミカはこの旅館の大切な客人なのだ。その理由が目の前にある限り、彼は己の欲を曝け出すことはないだろう。

「なあ、アレク」

 ローゼンはアレクの目をひたと見据えて、真面目な顔をして言った。

「お前がそんなんじゃ、ミカちゃんが可哀想だ。あの子はきっと、お前が来てくれることを待ってるぞ。もっとお前自身の気持ちに素直になってやれよ」

 ひょい、とアレクの頭を掴んで持ち上げる。

「こら、返せ」

「せっかくお前の正体を知ってて、それでもいいって言ってくれてるんだからさ」

 ぽんとアレクの首に頭を乗せて、ローゼンはカウンターから出た。

 振り向き、笑いかける。

「いつも紳士でいるんじゃなくてたまには狼になってもいいんだぞ?」

「…………」

 去っていくローゼンを見送り、アレクは目を伏せた。

 僕は……

 ちらり、とミカに視線を送る。

 ミカは玄関扉の横にある窓から外を眺めているところだった。

 ……やっぱり、駄目だ。彼女は大切なお客様なんだ。それを無視して接するなんてことは、僕にはできない。

 ぐるぐると胸中で渦巻く色々な気持ち。それが何だか重たく感じられて、彼は深い溜め息をついたのだった。

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