別府精一(警察官)【7】

 一瞬、八房と別府は顔を見合わせたが、直後に動いたのはもちろん八房のほうだった。なにも言わず事故現場のほうへ走りだす。別府は一拍置いて、頭を搔きながらそのあとを追った。

 どれほどの事故であっても非番の刑事課にできることなどない。だが怪我人の介助くらいなら手を貸すことができるかもしれない。その程度の気持ちで交番の角を曲がった別府の目に、呆然と立ち尽くす八房の背中が映った。どうしたんだと訝るいとまもなく、別府の思考は、予想を超える光景にしばし停止した。

 駅ビル一階の店に、救急車が尻だけ突き出して横たわっている。相当な速度で突っ込んだのだろう、遠目にも、窓ガラスや鉄枠がめちゃくちゃに破壊されていることがわかる。様子を見ようと近寄ってきた野次馬を、若い警察官がひとりで捌いていた。広場に目を転じると、幾人もの男女が路上に転がっていた。暴走する救急車に撥ねられたのか。四肢を力なく動かしている者や、打ち捨てられてぴくりともしない者がいる。刷毛で赤いペンキを一薙ぎしたような長い血の跡に、もはやどこの部分かわからない肉の塊が転々と落ちている。

 今回、先に動いたのは別府だった。自分でも驚くほどの瞬発力で走りだすと、八房を追い抜きざま、その硬直した背中をばしんと叩く。そのままいちばん近くに倒れている男性の許に駆け込んだ。若い男だ、まだ十代か。右腕と右脚が変な角度に捻じ曲がり、折れた肘からはぎざぎざの骨が突き出している。瘦せ型なのに下腹部が膨らんでいるところを見ると、もしかすると内臓が破れて内出血を起こしているのかもしれない。そうであればまずい。血の気の失せた顔を平手で叩き、怒鳴るように声をかけた。

「おい! おい! 聞こえるか!」

 何度か繰り返したところで、男が辛そうに瞼を持ちあげた。

「よし聞こえるな! がんばれ! 寝るなよ!」

 力づけるように肩を叩きながら、別府は空いたほうの手で背広の内ポケットから携帯電話を取りだした。119に繫ぎ、何台でもいいから救急車かきあつめて中央駅前に寄越せ、と怒鳴る。すでに誰かが通報しているかもしれないが、こういうのはどれだけ被っても問題ない。誰かが通報しただろうと誰もが思っている状況をこそ、恐れなければならないのだ。

 倒れた男が咳き込むと、細かい血飛沫が別府の服に滲んだ。危惧したとおり、内臓が傷ついているらしい。

「ああ……ああぁあ……」

 自分の血反吐と折れ曲がった手足に気づき、男は助けを求める目で別府を見あげた。半開きの口からは血と悲鳴が垂れ流され、うつろな目からは涙がこぼれる。

「し、死ぬんだ……ぼく、死ぬんだ……」

「死なない!」

 別府はかぶりを振って、無事なほうの左手を強く握った。

「いま救急車を呼んだ。がんばれ! おまえは死なない! 今日じゃない! がんばって目ェ開けてろ!」

「痛い……い、いたいぃいい……」

「深呼吸しろ! 大丈夫だ、死ぬような傷じゃない!」

 男が小刻みにうなずき、なんとか深呼吸しようと喉をひきつらせるのを認めながら、別府は素早く周囲を見まわした。ざっと見えるだけでも、他に三人は倒れているようだ。遅ればせながら我に返った八房がちょうど、倒れた女性のところに屈み込んだところだった。遠巻きにする野次馬は多いが、倒れた人を助けようと近寄る者はいない。苛立ちでこめかみをちりつかせて、別府は後ろを振り向いた。若い女がふたり、石膏のように固まったままこちらを見ているのと目が合った。

「おいあんた! そこの姉ちゃん! こっちに来てくれ!」

 女二人はびくっと身を震わせると、怯えたように顔を見合わせた。だが別府がもう一度声をかけると、顔をいっそう蒼白くしながらも駆け寄ってきてくれた。

「こいつの手を握って、声をかけ続けてくれ! 救急車が来るまで、意識を失くさせるな! ――いいな!?」

 二人はがくがくと首を縦に振ると、こわごわながらもしっかりと男の手を握り、「大丈夫ですか」「がんばって」などと声をかけ始めた。

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