別府精一(警察官)【8】

 別府は立ちあがり、次の犠牲者のところに向かった。こちらは中年の男だ。脇腹が大きく抉れ、肉の繊維やぬらついた内臓が血の沼に沈んでいる。しばらく声をかけ続けたが返事はなく、四肢は力なく投げ出されたままだった。別府は諦めざるを得なかった。八房のほうを見る。彼は倒れた女性に心臓マッサージをしていたが、その手を止め、駅ビルのほうに顔を向けたままじっとしていた。

 同時に、別府の耳にも聞こえてきた――甲高い叫び声、いや悲鳴、むしろ絶叫というべきか。駅ビルの中からだ。ここからでは男か女かもわからないが、しかし、切迫した調子は明らかだ。もしかしたらずっと聞こえていたのかもしれない。意識に届かなかったというだけで。

 ――なんだ……。何が起こっている?

 今さらながら、別府は戦慄と緊張が全身を痺れさせてゆくのを感じた。救急車が暴走して人々を撥ね、駅ビルに突っ込んだ――それだけではない。駅ビルのなかでもまだ何かが起こっている。誰かが襲われているのか。テロや通り魔事件を連想するのはたやすかったが、そうであれば下手に動くわけにはいかなかった。状況もわからず近づくのは危険すぎる。立ちあがってビルへ向かいそうな動きを見せた八房に、「動くなっ!」と鋭く呼ばわったのはそのためだった。

 そのまましばらく緊迫した時間が過ぎたものの、悲鳴はすぐに聞こえなくなった。

 事故現場のほうに視線を振る。ひとりで群衆を抑えていた若い警察官はいなくなったようだが、代わりに四、五人の警察官が「危険ですから」「下がって」と非常線を整えていた。凄惨な事故にみなが動転しながらも、なんとか状況は制御されつつある。

 中で何が起こっていたのかはわからない。だが悲鳴のようなものはもう聞こえないし、出口から逃げてくる客もいない。広場も多少、落ち着きを取り戻しつつある。別府は八房に「もう大丈夫だろう」とうなずいてみせると、また足元の被害者のほうに注意を戻した――いや、戻そうとした。

 視線を動かした拍子に、目の端に赤いものが閃いた気がして、別府はそちらに顔を向けた。駅ビルの一階――エレベーターの箱が止まっているあたり。エレベーターは外壁面に設置されているが、その外側、つまり広場側はガラス張りになっており、エレベーターから広場を見下ろせるようになっている。逆もまたしかり。だが今は、そのガラスが内側から真っ赤に汚されていた。別府は数秒間、目にしたものを理解できずに硬直した。

 あれはなんだ。赤い――液体を思いきりぶちまけたような。見ている間にまた新たな朱色が飛び散り、ガラスに勢いよく振りかかる。遠いここからでもそれがガラスに触れた瞬間の音が聞こえてくるようだった。びしゃり。あれはいったいなんだ――なにが起こって……いや、わかっている、俺はもう気づいているはずだ。

 あれは、血だ。

 血染めのエレベーターがゆっくりと上昇を始める。そのころには広場の数人が気づき、ざわつき始めていた。

「別府さん……あれ……」

 いつの間にか隣りに来ていた八房が、蒼ざめた顔で別府に声をかけた。

「誰かが、あそこで」

 ――襲われている。おそらくは致命的な量の血を流して。

 撥ね飛ばされ、轢き殺された人々。暴走して駅ビルに突っ込んだ救急車。店のなかから聞こえた悲鳴、あるいは絶叫。いましも流されている大量の血。ここまで揃えば疑う余地はなかった。いまここでテロ、もしくは通り魔事件が起こり、それはまだ続いている。

 別府は八房の肩に片手を置き、軽く揺さぶって正気を取り戻させた。

「おまえはここで怪我人の手当てしてろ。俺は様子を見てくる」

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