日置善文(インストラクター)【9】

 少女の言葉の意味を考える時間など与えられなかった。驚きの声や悲鳴があがるなか、日置は即座に大声と手振りで示しながら、客にフロント前に集まるよう促した。頬をひきつらせた浦和と、真っ蒼な顔の白川も、なんとか客を誘導しようと震える声を張りあげている。羽島青年は、いやがる素振りを見せる妹をなだめ、離れたところにいる人を探しに駆けだしていった。すこしためらっていた少女が兄のあとを追って走りだすのを、日置は目の端で捉えていた。

 羽島青年が確認した来館者は二十三人。うち二十一人はすぐに集まった。パニックの気配を見せたのは最初の瞬間だけで、一様に緊張で蒼ざめた顔をしているものの、総じて落ち着いているといってよい。浦和と白川も徐々に平静を取り戻し、不安がる客のケアに努める余裕もできていた。

 だが、あと二人がなかなか見つからなかった。名簿にある不明者の名前は、芹ケ野りさと川内総一郎――芹ケ野りさは日置がトレーナーを務める女性だ。彼自身が探しに館内を走りたいところだが、いまの店の責任者は日置であり、客全体の安全を確保する義務があった。一人をいつまでも待つわけにはいかない。

 妹と小走りに戻ってきた羽島青年が首を振るのにうなずいて、日置は、心配げな顔の老婆をなだめていた浦和を呼んだ。

「もう一度警備に電話してみてくれ。安全な場所――というか、危険そうなところがわかるなら、そこを教えてもらうんだ」

「わかりました」ときびすを返す浦和の背中を見送って、日置は集まった客に向きなおると、ひとつ息を吸いこんだ。耳障りに鳴りつづける警報に負けないよう、腹の底に力をこめて声を張る。

「みなさん、これから避難します! 係員が誘導しますので、列になって、あとについてきてください! くれぐれも落ち着い、て……」

 声が尻すぼみになったのは、居並ぶ客の向こう、店の入口からふらふらと現れた人影のためだった。

 女だった――振り乱した髪で顔が隠れている。さきほどの少女と同じように、全身が血でずぶ濡れだった。だが羽島の妹とは違い、その背後にべったりと血の帯を引きずっていた――耳を聾する警報の合間にはっきりと、びしゃびしゃと血の滴る水音が聞こえる。あれは……、と日置は半ば呆然と思った――あれは、まさか……。

 不意に黙り込んだ日置を不審に思った幾人かが、彼の目線を追って背後を振り返り、血まみれの女を見て驚きの声をあげた。女の正面にいた若い男が跳びすさろうとし、バランスを崩して尻もちをついた。動揺がさざ波のように広がり、恐怖の悲鳴がそこかしこで洩れる。

 日置は女に目を留めたまま、人波をかきわけて進んだ。女との距離が縮まるにつれ、不安は確信に変わる。あれは、そうだ、あのひとは……

「芹ケ野さん!」

 二手に分かれた客のあいだを走る。芹ケ野りさの身体がぐらついたところを、日置は己のたくましい腕で受け止めた。こんな状況にもかかわらず、彼はさきほど羽島青年が妹を抱きしめた姿といまの自分を重ねてしまうのを避けることができなかった。だが、一見して大怪我しているのは明らかだ。傷がどこにあるのか正面からはわからなかったが、日置が彼女の名を呼びかけるこの瞬間にも、致命的なほどの血が流れだしているのがわかる。血溜まりが足元で大きな円に広がりつつあった。

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