日置善文(インストラクター)【10】

「芹ケ野さん! しっかりしてください! 芹ケ野さん!」

 彼の声に応えてか、彼女の腕がゆっくりと持ちあげられた。震える手が日置の頬に触れ、力を失ってずるりと喉のあたりに落ち――そして驚くほどの腕力で、彼の喉笛を鷲摑みにしてきた。苦痛よりも驚きに打たれ、反射的に身を引き離そうとしたが、できなかった。芹ケ野りさの細い指が、信じられないような強さで喉の肉に食い込んでくる。痺れるような痛みが走ったのは、爪で皮膚が破られたからだったろうか。背後であがる悲鳴が大きく、切迫したものになる。

 日置は呻き、渾身の力を込めて彼女を引きはがした。肉が引き千切られ、血が迸ったが、いまは驚愕と衝撃が勝っているのか痛みは感じなかった。横ざまに倒れた芹ケ野りさが、唇をめくり、歯を剝き出しにした顔をこちらに向ける。収縮しきった瞳孔と真っ赤に充血した白眼に睨みつけられ、日置は背中を氷の塊が滑り落ちるのを感じた。

 芹ケ野りさが――いや、これはもはや彼女と言えるのだろうか――が再び立ちあがり、日置に両手を差しのべて倒れかかってくる。真っ赤な口を裂けんばかりに大きく開けて。

 日置はとっさに彼女の両腕をつかんで押しとどめた。もちろん、これで十分なはずだった。彼女の細い身体で日置の頑健な筋肉を制するなどできるはずがなく、彼女がいくら日置に嚙みつこうとしてもそれは無理な話のはずだった。だがすぐに日置は新たな驚きに打たれた。日置のほうが押されている。彼女は両腕を摑まれたまま、到底ありえないはずの力でじりじりと顔を寄せてくる。ガチッ、ガチッと空を嚙む彼女の歯が日置の喉に迫る。糸を引く涎が日置の顔に振りかかる。

「う、お……おおお……!」

 身を逸らし、顔をそむけながら、日置は混乱する頭を必死で整理しようとした。こんなことが起こるはずがなかった。彼が人生の大半をかけて注いできた肉体が、力への意志の結晶が――いくら理性を失っているとはいえ、これほどまでに筋肉の絶対量が違う女性に押されるなどと――これでは、これでは本当に、いったい何のために……

「芹ケ野さん! せり……!」

 ボギリという骨の砕ける音がしたのと、ついに彼女のあぎとが日置の頸を捉えたのとは、ほとんど同時だった。限界を超えた双方向からの圧力で芹ケ野りさの両腕の骨が砕け、かえって縛めを解かれたのだったが、そのことに日置が気づくことはなかった。

 膝を突いた日置の身体に、蜘蛛のように女の手脚が絡みつく。激しく頭を振り、頸や肩、頬の肉を喰い千切る。血と絶叫を撒き散らしながらのたうちまわる日置の姿に、並居る客の恐怖が決壊した。だがそのことも、もちろん彼が気にかけることはなかった。




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 日置善文(38)

  Z化後の感染拡大  別府精一(50)、浦和春馬(36)、伊集院忍(21)、伊集院楓(21)、入佐浩紀(27)、松元京子(31)、吹上ケサマツ(86)、溝辺俊介(14)、金峰真紀(19)、照島みおん(9)、加世田亨(44)、中福良さよこ(30)の12人

  1日後、羽島史織により頭部を破壊されて死亡

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