日置善文(インストラクター)【8】

 日置は腕時計を睨みつけた。見張り続けていると時間の進みは異様に遅くなる。浦和と白川が事務所を出てから五分しか経っていないが、もう半時間は待たされた感覚だった。我慢できず、日置が机の上の受話器に手を伸ばそうとしたそのとき、フロアで大きなざわめきが巻き起こった。日置と羽島が二人、まったく同時に、弾かれたように動きだす。

 事務所のドアを飛びだした二人は、しかし、まったく予期しなかった光景に立ち尽くした。

 血まみれの少女が叫んでいる。

 女子高生だろうか、制服の前面は血で――あれが血でなければなんだというのか――染まり、白い顔や手足もまだらに赤く汚れている。彼女は浦和に何事かまくしたてながら、落ち着きなく館内を見回していた。浦和が「落ち着いて」とか「怪我してるの?」とか声をかけるが、まったく耳に入っていないようだ。あまりの事態に日置の判断が追いつかないでいるうちに、少女は目的のものを見つけ、大声をあげた。

「――兄さん!」

「史織!?」

 応える声は意外なところ――背後の羽島青年から発せられた。

 少女は浦和を押しのけるようにしてこちらへ駆けだすと、同じように走り寄った羽島青年の胸に抱きとめられた。

「兄さん! 兄さん、兄さん……!」

 まぎれもない安堵の言葉を繰り返しながら、少女がぼろぼろと泣きはじめる。羽島青年が少女の背中を優しくたたきながら――それでは彼女は、彼の妹ということになるのか――「どうした」「何があった」と訊ねる。少女はなにか言おうとしては、ひきつる喉に言葉を遮られて、うまく声を出せないでいる。

 ようやく我に返った日置は、二人のもとに駆け寄った。彼女に何があったのかはさだかでないが、尋常でないことだけは確かだ。フロアの客は彼らから距離を置いてはいるものの、一人残らず、血まみれの少女に視線を注いでいる。日置としてはこの場をなんとか収めなければならなかった。

 少女は全身血にまみれてはいる。しかしさきほどの声の張りと足の運びからすると、それほど大きな怪我はしていないようだ。彼女を事務所に連れていかなければならない。話はそれからだ。もちろん、十分ほどまえの出来事と、警備の藺牟田から聞いた話が頭の大部分を占拠していた――ビルの揺れ、地鳴りのような音、「車が突っ込んだ」、「人を襲っている」……。彼女がなにか知っているはずだった。

 日置は羽島青年の肩に手をかけ、目で事務所のほうを示す。彼がうなずいて応えたとき、少女が顔をあげた。

「兄さん、逃げなきゃ。すぐに!」

「逃げる?」と羽島青年が眉をひそめる。

 涙に濡れているものの決然とした眼差しで、少女は兄の顔を真正面から捉えた。

「浩一が、ゾンビになった」

 一瞬、静寂がその場を包みこみ――

 次の瞬間、鋭い警報が建物中に響きわたった。

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