日置善文(インストラクター)【7】

 緊張した表情の浦和と白川になんと言うべきかためらったのち、「羽島はまだか?」と訊ねた。浦和がすぐに事務室のドアから半身を出してフロアをきょろきょろやり、大声で呼ばわる。

 小走りに駆け戻ってきた羽島青年の表情はさきほどよりさらに暗く、硬くなっている。後ろ手にドアを閉めるなり、低い声で言った。

「いまフロントの平佐原さんに聞いたんですけど、どうも、一階で事故があったみたいですね。車が突っ込んできたらしいって……」

 浦和が息を呑み、白川が怯えの滲む吐息を洩らす。日置はうなずいた。

「こっちも警備と話したところだ。その車から降りたやつが人を襲ってるって、藺牟田さんが言ってた。通り魔のようだと」

「通り魔……!?」と繰り返した白川の声は一オクターブ高くなり、「どうするんですか?」と叫ぶように言った浦和の声は恐怖でぶれていた。羽島青年は無言で日置を見ている。日置が両掌を軽く振るように上下させて見せたのは、慌てる二人を落ち着かせようとしたのはもちろんのこと、自分の気持ちを鎮めるためでもあった。抑えた口調を心がける。

「まだ不確かな状況だ。噂の範囲でしかない。非常警報も鳴ってないし、避難指示のアナウンスも流れていない。この状態では、まだお客さんに話をすることはできない。俺たちにできるのは、状況を確認しつつ準備を整えて、避難となったら速やかにお客さんを誘導することだ」

 日置は羽島青年に顔を向けた。

「何人だった?」

 いまフィットネスクラブに来ている人間の数のことである。

「二十三人です。男女ほぼ半々。うち六十歳以上が三人」

 高齢者は優先的に避難させなければならないマニュアルになっている。日置はうなずいて、さきほど浦和と白川には説明した避難時の手順を繰り返した。羽島青年はフロント前に客を誘導し、全員そろったら避難を先導する役目である。彼が理解したのを認めると、日置は浦和と白川に向きなおった。

「二人には、それとなく館内を見てまわって、お客さんがどのあたりに何人ぐらいいるのか確認してきてもらいたい。いざというときスムーズに集められるようにな」

 浦和と白川は緊張した面持ちでうなずくと、事務所を出ていった。必ずしもそうしなければならないわけではなかったが、やることがあったほうが気も紛れるというものだろう。

 羽島青年は黙然と避難マニュアルに目を通している。日置はすぐに動けるよう、荷物をまとめて――といっても、財布とスマホとタオルくらいだが――ウエストポーチを腰に巻いた。

 じりじりとした時間が過ぎる。肌がひりつくようなこの緊張は、だがいずれ警報か館内放送で、もしくは藺牟田からの電話で破られることになるのだろうと思った。どこからか避難の指示が下りれば話は簡単だが、もしかしたら待機か避難かを選択しなければならないかもしれない――場所を移動することでかえって危険に見舞われることもあるのだから。状況が流動的な場合、自分はしんがりではなく先頭に立ったほうがいいだろうか? どこをどう通って、どこに避難するか、はっきり決まっているなら別だが、スピーディかつフレキシブルな判断を浦和と羽島に任せるのは荷が重いかもしれない。だが脅威から客を誘導する以上、いちばん最後を守るのは、いちばん年上かついちばん筋肉がある自分であるべきではないのか……

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