日置善文(インストラクター)【6】

「下で何かあったんでしょうか?」と白川がつぶやくと、どこともなく部屋のなかを見まわした。彼女は去年の秋にここに正式採用されたばかりの新入りインストラクターだ。二十代半ばの貌にはまだ少女の面影すら残っているが、いまは不安げなその表情が、よりいっそう幼さを際立たせている。

「地響きっていうか、地鳴り? みたいなのありましたよね。わたし、最初は地震かなって思ったけど……」

「いま警備に確認中だが、どうやら下のほうで事故かなにかがあったらしい。詳しいことはまだわからない」

「避難誘導の準備をしたほうがいいですか?」

 そう訊ねてきたのは羽島青年だ。いまいる従業員のなかでは最年少でしかもアルバイトだが、頭はいちばん早くまわるようだ。いや、むしろアルバイトだからだろうか――日置は余計なことと知りつつも思った――正社員になるとイレギュラーな判断を嫌がるようになるものだから。アルバイト程度の身分だから、かえって思いついたことを素直に口に出せるといったこともあるのだろうか。

「そうだな。お客さんに報せるのは、状況がまたはっきりしてからでもいいが、できる準備だけでもしておこう」

 とはいえ、できることは限られていた。事態が明らかでない以上、客をいたずらに不安にさせるわけにもいかない。とりあえず来館者の数を確認するために羽島青年をフロントまで走らせると、有事の際の避難マニュアルを机に広げると、ほかにすることもなくなってしまった。日置が冊子に目を落として避難手順を確認するあいだ、残る二人は所在なさげに室内を立ち尽くしている。

「いざ避難となったら、浦和くんは羽島くんと一緒に、館内のお客さんをフロント前まで誘導してくれ。白川くんはそこで来館者名簿と突き合わせて点呼だ。全員がいるのを確認できたら、浦和くんと羽島くんを先頭に、非常階段で下まで降りよう。白川くんはお客さんと一緒に、俺はしんがりだ。非常階段が使えなければエスカレーターなり、そのとき使えそうな道を考えることにする」

「そんなに大ごとなんでしょうか?」

 日置の説明を聞く白川の顔が、どんどん蒼ざめていく。

「いや、まだわからないよ。ただ、いちおう、事前にいろいろな想定をしておくべきじゃないか?」

「はい……」

 白川はうつむき気味に頷いた。どうも彼女は少々――日置に言わせれば――心の筋肉が足りない。まだ若いとはいえ、逆境に抗うための精神を鍛えるべきである。だが、それはまたいずれの話だ。いまは彼女を安心させようと、日置は柔らかく微笑んでみせた。

「大丈夫。もしかしたら避難する必要すらないかも――」

 その言葉を遮るように、事務所の電話が激しく鳴った。相手はもちろん警備の藺牟田だったが、その声はさきほどのものとは打って変わって張り詰めたものだった。

「よ、ヨシちゃん、ヨシちゃん! 大変、大変だよ」

「どうしたんですか?」

「す、すごかった。いや、いや、ありゃいかん、大変だ。俺ね、我慢できなくて、見に行ったんだ、そしたら、す、すごい事故が! 車が突っこんでて、何人も倒れてて! そんで、そ、そんでさ、なんか、誰かが襲われてんの! ち、ち、血だらけで!」

「藺牟田さん、落ち着いてください。事故ですか? 車の?」

「い、いや、違う! 事故っていうか、通り魔? そう、通り魔みたいな! 襲ってんの、人を!」

「通り魔?」

 心臓のあたりを硬い荒縄で締めつけられる感覚を味わいながら、日置はうめくような声を出した。

「そう! そう! ほら、あったろ、まえに! 車で人に突っこんでさ、降りてからナイフで切りまくった!」

「それが店に?」

「そう!」

「一階ですか?」

「そう!」

「わかりました。ほかには?」

「い、いや、そんだけ――そんだけっていうか、なんていうか」

「また何かわかったら……それで連絡できそうだったら、また電話ください」

「お、おう!」

 日置は受話器を置いた。

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