日置善文(インストラクター)【3】

「筋肉は適度に休ませたほうが太くなるとも聞きますよ」

「超回復のことかな? やれやれ」

 日置は鼻から長く息を吐き出して、カルテを机に放り出し、まいったなとばかりに首を振った。ジムの客にはマニュアル通り、筋トレの休息による効果を語るものの、彼自身は超回復理論を信じていない。それは軟弱者の理屈である。

「筋肉は痛めつけてこそ強く、太くなるものだ。逆境でこそ大きく成長する。男の魂のようなものさ」

「そうですか」

「いま聞き流したな?」

「そんなそんな」

「まったく……。羽島くんはトレーニングしないのかい? 男は筋肉をつけるものだ。筋肉はいいものだぞ」

「それなりにはしますけど、そりゃ、先輩ほどでは……。ところで先輩は語尾までマッチョですよね」

「それはどういう意味かな?」

 羽島青年はわざとらしく「ハハハ」と笑うと、カルテを整理して席を立った。

「じゃあ僕、ちょっとフロアに出てきますね。小山田さんが来てるかもしれないし」

「おう」

 羽島青年は今日、五時半と六時半に、それぞれカウンセリングの予定がある。たしかどちらも五十代の女性で、より運動に熱心で、より厚化粧のほうが小山田さんだったはずだ。日置の見たところ、彼女は羽島青年と話したい一心でこのフィットネスクラブに通い詰めている。もちろん、適切な運動のためなら、その動機なんてどうだっていいのだけれど。

 誰もいない事務室で机にひとり。

 日置は担当客のカルテをめくった。名前は芹ケ野りさ。細身の若い女性で、事務仕事でなまった身体を動かしたいと、このクラブに通い始めたのだという。彼女のカウンセリングを始めて半年近くになるが、総じて優秀といってよかった。筋肉量も体脂肪率もほどよいラインを保っている。当初はランニングなどの有酸素運動をするとすぐにバテていたようだが、このところ持久力も伸び、今日など――ちょうどいま――トレーニングルームのエアロバイクでやたらと気合を入ったペダルの踏みようだ。もともとダイエットが必要な身体というわけではなかったし、運動自体も好きらしい。指導しやすいというか、楽な相手でもあった。

 だが彼女も、日置の見たところ、最近クラブ内に気になる相手を見つけたようだ。穏やかそうな若い男と仲良く話しているところをよく見かける。

 いや、もちろん、いいのだ――別に強いてそう言い聞かせているわけではなく、日置は素直にそう思っていた――トレーニングを通じて楽しいことを見つけることは、さらにトレーニングを楽しむために大切なことなのだから。

 日置は黙々とペンを動かし、今日のカウンセリングの所感を書き込んでいく。

 重い身体を預けた椅子の背が、ぎしりと微かに軋む。店に流れる陽気な音楽は後景にしりぞき、ペンの先端が紙を滑る音や、ぱらり、と紙がめくれる音がやけに大きく聞こえる気がした。

 こんなときだ――漠とした靄のような不安が胸を訪れ、首筋の産毛をちりちりさせてくるのは。

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