日置善文(インストラクター)【4】
トレーニングや軽い運動のメニューを客のために整える日々。他人の筋肉に我が身と時間を捧げるだけの毎日。豊富な器材があるはずなのに、自分がこれでトレーニングをしたのはいつが最後だったろう? 二十時間と三十分もまえだ。筋肉が死んでいく、筋肉が……。これはもちろん冗談なのだけれど、その裏にある不安の陰は本物だった。
俺の筋トレへの情熱は、いったいいつまで保てるのだろう?
ゴールのない情熱は、いったいどうやって維持していけるのだろう?
これは四十を間近にした日置が、このところぼんやりと考えることであった。
そもそもトレーニングとは、辿り着くべき目的地があってこそなのではないのか? なにかのためにトレーニングをしたり、トレーニングを通じてなにかを見つけたりと、その過程はさまざまなのだろうけれど、いずれにしても、やがて達成すべき何か、辿り着くべきどこかへと至るためのものなのではないか?
何気なく始めた筋トレではあったが、日置は自分の努力の成果がはっきりと目に見える行為に深い充実感と達成感を抱き、すぐにすべての精魂を注ぎ込むようになった。職業的なボディビルダーほどはないにせよ、一般人の感覚でいえば、かなりデカい身体つきを手に入れたという自負はある。
だが筋力というものはいつまでも隆盛を誇るわけではなく、いずれ加齢とともに衰えるものである。フィットネスクラブに勤める日置は幅広い年代の男女の肉体を相手にしており、その事実を否応なく見せられ続けてきた。
やがて俺の腕は細り、胸も薄くなるだろう。否応なく身体が縮んでいくにつれて、自分の傾けた時間と情熱の成果も収縮してしまうのだ。
逃れられない時間の仕儀を日々目の当たりにし、そして思いを馳せながら、どうやっていつまでもトレーニングへの意気込みを燃やし続けられるというのだろう? もしかしたら彼も、トレーニングのためのトレーニングではなく、ほかに何か到達すべき目標、手に入れるべき幸せを探すべきなのかもしれなかった。
四十を間近にしたいま、いつまでもただ筋肉筋肉筋肉と、念仏のように唱えているわけにもいかないのである。
「つらいな……」
鼻から息を吐き出すと、日置は右手で魂の相棒――はりつめた左上腕二頭筋――をぴしゃりと叩いた。
彼の物思いを断ち切ったのは、自分のそのわざとらしい所作ではなく、店のBGMを破るように聞こえてきた遠雷のような音だった。なんだと思う間に、腹の底から揺さぶられるような感覚が襲う。机がカタカタと細かく揺れ、上に置いたボールペンが転がった。建物が揺れている。地震か、と日置は腰を浮かせかけたが、震動はすぐに収まった。中腰のままじっとして、何かあればすぐに机の下に隠れられるように身構えたものの、しばらく待っても何も起こらない。
脇の棚に放り出してあるスマホを確認してみる。だが地震速報が流れているでもない。気のせいだろうか――いや、机の上のものが動いたのだから、そんなはずはなかった。日置はトレーニングフロアに通じる扉を開けて、首だけ出してあたりを見回してみた。すこし戸惑い気味に顔を見合わせている人や、スマホに目を落としている人がちらほらといるだけで、いたって平穏なものだ。
震度3か4くらいの地震だったのかもしれない。あまり気にすることはない。しばらくしたらネットニュースで速報が流れるだろう。だが、同時に聞こえてきたあの音……。ただの地震であんな音がするものだろうか……。
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