日置善文(インストラクター)【2】

 最後にトレーニングをしたのは昨日の夜だ。帰宅のまえに三十分ほど走り、上半身を中心に小一時間ほどマシンを経巡ったあとで、ベンチプレスを軽く――110キロを15回、130キロを7回――こなしただけだった。

 考えられないことだ。

「ボディビルダー目指してらっしゃるんですか?」

 いつだったか、そう訊いてきたのは、同じ職場の羽島尊臣だった。福岡かどこかの大学に通う学生らしいが、卒業に必要な単位は取り終えたとのことで、しばらく実家の鹿児島に戻り、このジムでアルバイトしているという。すらりとした長身の精悍な若者だけれど、日置の目からすれば、少々筋肉が足りない男だった。

 ビルダーのことだが、別に日置はそれを目指しているわけではなかったし、過去に夢見たことすらなかった――意外に思われることも多かったけれど。もちろんビルダーの方々の類稀な肉体美には賞賛を惜しまない。かなうものなら近づきたいと思うこともある。だが彼らの超人的な努力にはとてもかなわないということはわかっていた。限界を突破し、さらに次の限界を超越するトレーニング。すべての精神力と時間との徹底した投入。寸分の狂いも許されない食事制限――。

 そう、食事制限、これが最大のネックだった。日置は無類の酒好きであり、毎日ビールと焼酎がなければ一日を終えることができない。そもそも若かりしころの彼がトレーニングを始めるきっかけになったのも、汗を流して飲むビールが格別だということを知ったためだったのである。彼にとって、飲酒と筋トレとは切り離せないものだった。これでは筋肉アスリートを志すことはできないし、目指すのも不遜というものだ。日置はわきまえる男であった。

 それでも羽島青年は、日置を――彼の筋肉を――賞賛し、鹿児島では一、二を争う代物であろうと太鼓判を押すと、「大胸筋先輩」というあだ名を奉ってくれた。

 嬉しいことを言ってくれるものである。

 だがいま、その羽島青年も、「いや先輩」といささか困惑ぎみに首をかしげていた。

「たまには二十時間くらい、筋肉も休ませてあげないといけないんじゃ……」

「いいや、いまこの瞬間にも、筋繊維の一本一本が枯れていくのがわかる」

 さすがに冗談だが、あながち的外れでもないと思っている。

 職場の事務室である。二人はそれぞれが担当する客のカルテをめくりながら、トレーニングメニューに過不足がないか確認しているところだった。羽島青年は苦笑いして、カルテにチェックを入れる作業に戻る。

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