日置善文(インストラクター)【1】

               鹿児島県鹿児島市

               4月28日(木) 


 だが、あの情熱はいったいどこへ行ってしまったというのだろう。若かりし俺の心を奮い立たせたあの力、魂の深奥からマグマと煮え滾り、この俺を衝き動かしたあの情熱は? 無理やりそんなことを考えてみても、日置善文のしなびた心に活が入るわけではなかったし、目のまえに広がるよりどりみどりの器材と豊富なメニューを、仕事終わりの自分に役立てようという気にもなれなかった。

 趣味を仕事にしたのがいけなかったのだろうか? よく聞く話ではある――好きでやっていたはずのことが、仕事にした途端にノルマやら納期やらのしがらみに縛られて、やがてうまくいかなくなってしまうといった話。仕事のストレスにじわじわと押し潰され、それを趣味で解消することもできず、日々の生活から熱が失われてしまう……。

 それなら俺も――と日置は思った。

 筋トレを仕事にしないほうがよかったのだろうか。

 いや、正確には、別に筋トレが仕事というわけではない。彼はスポーツクラブのインストラクターであり、筋トレに限らず、エクササイズや軽い運動も指導している。スポーツクラブを訪れる人は、当たり前のことだが、筋力トレーニングだけを目的にしているわけではない。ダイエットや健康管理のため、ストレス解消のため、友人と語らいながら身体を動かすため、単に汗を流すため、目的は人それぞれだ。彼の仕事は気持ちよく運動してもらうためのお手伝い――総じて、お客様の健康と生活をフィジカル面からサポートすることなのだ。

 だが、消防士の職を辞してインストラクターとして働くようになって十年、トレーニングへの情熱が目に見えて衰えているのは事実だ(だって手足が細くなっているのは見ればわかる)。消防に勤めていた頃は、出動の合間や事務仕事の隙間を見つけては、みずからの肉体を鍛えることに励んだものだった。日置は若かりし日々のことを懐かしく思い起こした。早朝出勤してランニング、朝礼のまえにダンベル。書類仕事を片付けて縄跳び。操法訓練でくたくたに疲れた身体で懸垂。大胸筋と三角筋を鍛えあげて火災現場に向かい、煙が濛々たるアパートから被害者を救いだしたあとは、爽快な気分で大腿四頭筋とハムストリングスを痛めつけたものだった。仮眠を惜しんでいそしむ腕立て伏せの、なんと魅惑的、そして背徳的なことか! 日置はまるで彫刻を磨きあげるように肉体を研ぎ澄まし、鏡に映る己の姿をより高みへと導くため、日々つらい努力を積み重ねていたのだった。

 それがいまはどうだ……。日置は自分の両掌を眺めた。はりを失い、肌理が粗くなり、くすみはじめた掌を。

「もう二十時間もトレーニングをしていない……」

 つぶやき、日置は目頭を押さえた。

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