芹ケ野りさ(銀行員)【3】

 それからは早かった。互いのトレーニングの時間がほとんど重なることはわかっていたから、バイクをこぐさいは、空いているときでも意識して隣を選ぶようになった。自分のこと、仕事のこと、趣味のことと話は広がり、次第に仲良くなっていった。彼が県内では有名な建築会社の設計士であること、りさの勤める地銀の窓口に客として訪れることがあることも知った。映画鑑賞が趣味らしく、これはりさと同じだった。家族の話だけはしなかったが、彼の左手に指輪がないのは確認していた。もちろん、ここは運動をしに来る場所なのだから、指輪を外している可能性はあったのだけれど。

 そう、その事実――結婚指輪をしていないという事実と、それが意味することとしないことを、これまでりさは努めて無視してきた。結婚指輪がないからといって、結婚していないとは限らないし、さらにいうなら特定の相手がいない証拠になるわけではない。けれどそれはりさに関係ないはずだった。べつに彼女は婚活に来ているわけではなくて、トレーニングのなかで偶然すこし会話ができる相手ができたというだけの話なのだから。

 だが無視している自分には気づいていたし、そうしつづけるわけにもいかなくなっていた。

 りさは時計をちらりと見た。五時ちょうど。もうすぐ彼は来るだろう。帰るまえにバイクをちょっとだけ、という約束が守れないのは最初からわかっていた。自分ではっきりそう決めたわけではなかったけれど、りさは一歩を踏み出そうとしていたのである。

「お疲れさまです。今日は早かったんですね」

 穏やかな挨拶をかけられたのは、いささか力を込め気味にこいでいるときだったけれど、彼がフロアに入ってきたのには最初から気づいていた。りさも笑顔で「お疲れさまです」と返した――つもりだったが、すこし硬い表情になったのは仕方なかった。

「だいぶ仕事も落ち着いたんで」

「良かったですね。先月なんかけっこう忙しそうでしたもんね」

 銀行は三月と九月が決算月だ。窓口業務が中心のりさは地獄を見るまではないが、それでも自然と残業は多くなる。先月はクラブに通う回数も減ってしまっていた。伝票の山に黙々とチェックを入れ続ける毎日で、だからこそ、ここに来れば仕事とは関係のない話ができるのが嬉しかったのかもしれない。

 川内は隣のバイクにまたがると、ゆったりとした動きでペダルを踏んだ。

 それと悟られぬよう、そっとりさは横目で彼をうかがった。短く刈った髪には清潔感があり、伏せ気味の睫毛は長く、鼻筋がまっすぐに通っている。後ろ髪が一房カールしているのがやけに目についた。トレーニングウェアからのぞく手脚は筋肉質というほどではないが、ほどよく引き締まっているようだ。りさは視線を前に戻すと、ぎゅっと目をつむった。なんだかこのところ、彼の細部ばかりに目が吸い寄せられる。

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