芹ケ野りさ(銀行員)【2】

 彼――川内総一郎と初めて会ったのは三ヶ月ほどまえのことだ。その日、スポーツクラブはやけに混んでおり、エアロバイクはりさの隣の一台しか空いていなかった。そこに人影がまたがったとき、りさはなんとなくそちらに視線をやった。物静かそうな長身の男性で、彼もこちらに目を向けていた。恥ずかしそうに唇の端で微笑んで「こんにちは」と会釈した姿が、りさの印象に残った。つられて微笑を返し、頭を下げる。

「今日、多いですね」

「そうですね」

 りさは頷いた。最初の会話はそれだけだったと思う。彼はイヤホンを耳に入れると、前を向いてバイクをこぎはじめた。りさもそれっきり隣の男性を意識することもなく、自分が帰るときに彼がまだいたかどうかも覚えていない。名前も聞かなかったし、別に気にもならなかった。

 二度目に言葉を交わしたのも、同じように混雑した日、エアロバイクのところでだった。その日はりさが訪れたとき、すでにバイクはいっぱいだった。すこし時間を置いてからまた来てみようと、ウェイトトレーニングのほうに向かいかけたとき、彼が「僕もう帰りますよ」と声をかけてきたのだ。

 彼はバイクから降りると、提げていたタオルでサドルを拭ってから、「どうぞ、よかったら」とマシンを示した。汗の浮かぶはにかんだような笑顔は、一度目のときより好感がもてた。

 それ以来、ほんのすこしずつ距離が縮まっていった。よくトレーニングしている時間もなんとなく把握できるようになったし、すれ違うときの会釈には、人よりほんのすこしだけ微笑がこもるようになった。マシンが偶然また隣り合ったときなど、お互い、挨拶にひとことふたこと付け加えるようにもなった。お疲れさまです。今日も多いですね。お仕事帰りですか。いつもよくこいでらっしゃいますよね。

 彼の名前を知ったのも、つい最近――ひと月まえのことに過ぎない。いつものように天気のことを軽く交わしたあとで、「ところで、申し遅れましたけど」と切り出した彼は、あのすこし恥ずかしそうな笑顔を浮かべていた。

「ぼく、川内総一郎っていいます。お名前お訊きしてもいいですか?」

 その控えめな物言いが、銀行という男社会で日々ストレスを感じているりさには新鮮に思えた。

「あ、こちらこそ申し遅れてすみません。芹ケ野りさです」

「芹ケ野さん」

 川内は繰り返した。笑うと左頬のえくぼが深くなるのに、りさは気づいた。

「なんとなく聞きそびれちゃってて。これでやっと、あの人来てるかなって思うときに名前で考えられますよ」

 それはりさも全く同じように考えていたことだった。彼も自分を探してくれたりしたのかもしれないと思うと、嬉しいような恥ずかしいような気持ちで胸がくすぐったくなり、りさはエアロバイクのメーターに目を落とした。

「いや、わたしこそ、お名前聞こう聞こうとは思ってたんですが、なんとなく」

「もうどれぐらいですかね……二ヶ月くらいですか」

「それぐらいですかね……」

「はやく聞けって話ですよね」

「いやあ……もう逆に知らないほうがおもしろいのかもしれないと思ったり」

「それは」と言って、川内は声をあげて笑った。

「ぼくもちょっと思いましたけど」

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