萬福博吉(農業)【6】

「おかあさん?」

 みのりがぽつりとつぶやいて、つないだ手を振り払おうとした。

「みのりちゃん、おいで」

「おかあさんは? おかあさんは?」

 惨状を呈した喫茶店に走りだそうとする彼女を、手に力を込めて引き止める。

「お母さん大丈夫だから。こっちにおいで」

「いや! おかあさん!」

 まだ五歳にもなっていないとはいえ、子どもは思いのほか力が強い。加減知らずに抵抗されると、博吉も片手では抑えきれなかった。暴れる彼女を抱きかかえて立ちあがる。だが、慌てたために腰に力がかかり、鋭い電気のような痛みが走った。思わずうめきを洩らす博吉にはお構いなしに、みのりは泣きながら、全身をくねらせて逃れようとした。

 自分も頭が働かないのに、こんな小さな子どもがすぐさま、目の前の出来事――こんな大事故、生まれて初めてのことだろうに――と母親の無事を関連づけて考えることができることに、博吉はいささか驚いた。それとも人間、四歳ともなれば、自分が思うよりも物事をちゃんと理解しているのだろうか。だがいまは、とりあえずいまこの瞬間だけは、なにも理解しないでいたほうがいい。とにかくこの場を離れて、一度落ち着きを取り戻したほうがいい。

「おかあさん!」

 泣きじゃくる孫娘をしっかりと抱えたまま、腰の痛みを我慢して、野次馬のうしろまで避難する。すでに数十人以上が壁をなし、様子をうかがったり、携帯電話になにか話していたり、隣りの人と不安げに顔を見合わせたりしていた。幾人かは爆発した店のほうに走り、怪我をした人たちに手を貸しているようだ。

 博吉は右手にあった女性物の靴屋にはいった。痛む腰をかばいながら、ゆっくりとみのりを床に降ろす。すでに彼女は暴れるのをやめ、博吉の首にかじりついて泣いていた。ひとまずみのりを放そうとするものの、いやいやと首を振りながら強くしがみついてくる。仕方なく、中腰のまま小さな背中をさすってやった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだからね」

 ほかになんと言いようもなく、小さな声で繰り返しながら、尻ポケットの携帯電話を取りだした。孫娘をなだめながら、震える指で、由実の番号を苦労して呼びだす。祈るような気持ちで呼び出し音が途切れるのを待ったが、いつまで経っても娘が電話に出ることはなかった。

 あきらめて電源ボタンを押したとき、遠くから甲高い悲鳴が響いてきた。店の外の左手、爆発のようなものがあった場所のほうからだった。同時に、他の買い物客たちのざわめきが大きくなる。みのりがびくっと身体を揺らして、博吉に抱きつく腕にまた力を込めた。

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