萬福博吉(農業)【7】

 またなにかあったのか。だれか怪我をしたのか。なにが起こったのかいまだにまったくわからないが、危険が去ったわけでないことは直感できた。爆発があったのか事故があったのか――車が突っ込んだとも聞こえたような気がする。そしていまの常ならぬ悲鳴。いつだったか、世間を騒がせたニュースが頭をよぎる。繁華街に車で突っ込んで人びとを撥ねたあと、サバイバルナイフで手当たり次第に切りつけた通り魔……そういったたぐいだろうか。ならばここも危ない。遠くに、すこしでも遠くに行かなければならない。

 ふたたびみのりを抱きあげようとしたものの、腰に激しい痛みが走り、抱えて逃げるのは断念した。痛みに顔をしかめながら、意識して落ち着いた声でみのりに話しかけた。

「みのりちゃん、歩ける? お店から出ようね」

 みのりは泣きはらした目で博吉を見あげる。

「おかあさんは?」

「外で待とう。ここはちょっとあぶないから」

「やだ!」と叫んで、激しく首を振る。

「おかあさんといっしょに行く! おかあさん探す!」

「みのりちゃん――」

「いや! おかあさん!」

「おじいちゃんの言うこと聞いて、みのりちゃん」

「いや!」

「聞きなさい!」

 思わず発した大声に博吉自身がうろたえてしまう。みのりは身体を硬直させて見あげていたが、その目にまた新たな涙がふくれあがった。だが、いまは引きずってでも連れて行かなければ。抱きあげることができれば早いのだが……。

 騒然とする廊下を見わたし、さあ、と孫娘の手を引こうとしたそのとき、また新たな悲鳴が轟いた。男女の別もわからない濁った声は、ほとんど絶叫に近かった。野次馬の群れからも叫びや悲鳴、動揺のうめきがあがる。一人また一人とその場から駆けだす者があらわれ、人波がばらばらと崩れはじめた。まぎれもないパニックが急速に拡散してゆく。

 あえて振り向くことなく、そのまま二人で離れるべきだった。一刻も早く店を出ることだけを考えるべきだった。だが博吉は、廊下の向こうから響く絶叫への恐怖から、振り返って確かめずにはいられなかった。そんなことをしなければ、みのりが自分の手を振り払って駆けだすようなことはなかったはずだった。

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