迫洋子(市役所臨時職員)【2】

 そう、昨日――


 ――彼女は仕事の手を止め、マナーモードで震えるスマホを見た。夫の番号だ。

「お仕事中にすみません。いまお時間よろしいですか」

 電話の先でそう言ったのは、しかし夫の允人ではない。硬く事務的な声で、相手は警察であることを告げた。

「ご主人さんから奥さんにお話がありまして、よければ外においでいただきたいんですが」

 警察からの電話は生まれて初めてだ。洋子は周囲を見まわした。パートで働きに来ている鹿児島市役所の松元支所には、狭い町でのこと、プライベートな知り合いもたくさんいる。隣りの席の係長が、こちらを見ることなく耳をそばだてているのがわかる。席を立ち、職場である農業委員会のフロアを離れながら、洋子は声をひそめるようにして訊ねた。

「あ、あの……主人に何か……?」

「詳しいことはご主人さんから……よろしいでしょうか?」

「ちょ、ちょっと待ってください……」

 廊下の隅の暗がりまで歩き、激しく動悸する胸を押さえる。

 警察から電話?――夫の携帯電話で? 夫に何があったのか。何かの事件に巻き込まれたのだろうか。救急隊や病院からの電話ではないのだから、怪我をしているわけではないのだろう。誰かとトラブルになった? 警察の仲裁を受けているのだろうか? でもどうして夫から私に直接話すためにわざわざ外に呼び出したりなんてするんだろう? そもそも電話の相手は、本当に警察なんだろうか? でも夫の携帯からだから、少なくとも彼は電話を了解してるんだろう。それとも電話を奪われて?――何かの詐欺?――いや、まさかそんな。本当に警察の人からではあるんだろうけど、でもそれじゃなんで……?

 結局なにもわからないところに思考が戻ったところで、洋子はようやく口を開いた。

「ど、どちらにうかがえばいいんでしょうか?」

「市役所――支所を出て左手の筋に、グレーのクラウンが停めてあります。パトカーじゃありません。そこに来てください。奥さんが近くにいらっしゃったら、ご主人さんがご自分でお呼びしますから、心配なさらないでください」

「わかりました」

「突然すみません。ご不明な点がありましたら、またお電話ください。それでは」

 最後まで事務的な口調で告げ、警察官を名乗る相手は電話を切った。

 通話が切れたスマホの待ち受け画面をしばし呆然と見つめてから、気を取り直すために、意識して首を振った。ひとまず警察官の言うとおりにしてみなければ何も進まないのだ。彼女は農業委員会のフロアに戻ると、すこし席を外してもいいか係長に訊ねた。理由は言わなかった、どれくらいの時間なのかも――どちらも、まず彼女自身がわかっていないわけだが。係長は特に疑問に思わなかったようで、「うん、はい、どうぞ」とあっさりうなずいただけだった。まさか庁外に出るとは思っていないだろうが、洋子は自分からあえて言おうとはしなかった。

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