迫洋子(市役所臨時職員)【1】

               鹿児島県鹿児島市  

               4月28日(木) 


 世界の終わりというものが、まさかこんなかたちで訪れるとは思ってもみなかった。

 迫洋子は寝不足で陽に痛む目を伏せて、ともすればふらつきそうになる足に力をこめなおす。駅のプラットフォームを急ぎ足で行き交う人たちが、のろのろ歩く彼女を礼儀正しく、しかし迷惑そうに避けてゆく。人波に押されるように電車から降りた洋子だったが、改札に向かう昇りエスカレーターにたどり着くころには、列の最後尾になっていた。

 昨日は一睡もできていない。これから先も、穏やかに眠りに就ける日が戻るとは思えなかった。

 小学生になったばかりの隆太を寝かしつけ、高校生の亜美とたわいのない話をし、夫の隣りにすべり込んで眠る静かな夜。銀行の営業をしている夫は、四十代の他のおじさんと同じように「疲れてるんだよ」が口癖で、だいたいいつも先に寝入っていた。夫がシンクに放り込んだだけのビール缶を水洗いして逆さにし、つまみの皿を洗い、生ごみの処理をして、寝酒にワインを一杯だけ飲んでから寝室へ行く――決して極上の幸せというわけではないけれど、洋子は自分の生活に特に不満を感じているわけではなかった。どこのご家庭もこんなものだろうと思っていた。

 平凡で単調な暮らしにも、子供たちの成長をはじめ、ときおり胸を温かくさせてくれる出来事が花開く瞬間というものは確かにあったし、夫への気持ちは学生のころの若く激しいものから穏やかな愛情へ変わって久しいけれど、家族ならばむしろそれは当たり前のことだし、夫への――家族への――この気持ちは、そしてこの生活は、彼女が意識する必要もなく、至極あたりまえに大切にしてきたことだった。

 それを崩した最初の一突きは、昨日かかってきた電話だった。

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