宇都紗耶香(高校生)【10】
そのとき、紗耶香の右腕をもうひとつの手が力強くつかんで引き寄せたのを感じた。赤くぼやける視界のなかで、必死の形相の大里くんが拳を振りかざしていた。彼が何事かを叫びながら、紗耶香に嚙みつく男の顔を殴りつける。だが男は離れない。ふたたび拳を打ち落とす。男の顔が紗耶香のうなじから離れた。急速に遠のく喧噪のなかで、紗耶香の耳に、ぶちぶち、という何かがちぎれる音がやけに鮮明に響いた。
くずおれる身体を大里くんが抱きとめてくれたのはわかった。けれど視野と頭のなかは靄に包まれつつあり、彼が何事か呼びかけてくれる声もほとんど聞こえない。いけない、やばい。とりとめのない思いのちらつきも、徐々にまばらになってゆく。
大里くんが気になりだして以来、紗耶香はたまに考えることがあった――ため息まじりの帰り道で、毛布にくるまる自宅のベッドで、彼の楽しそうな笑顔から遠い自分の席で。いまなにか自分の身に起きて、大里くんにもう会えなくなるとしたら、死ぬ間際に後悔するだろうか。こんなことならせめて気持ちを伝えとくんだったなあ、なんて思うだろうか。悲しい物語の脇役みたいに。
圧倒的な力で意識が消し流されていく。衝撃も混乱も苦痛も急速に失せてゆくなかで、最後の最後に彼女の意識にひらめいたのは、けれど大里くんのことではなくて、母親のことだった。
お母さんが久しぶりにはやく帰ってくるのに――
帰りが遅くなるって、お母さんにLINEしないと――
――もうすぐ母の日……
目を閉じた紗耶香の足元に、大里くんと一緒に見たハンカチが落ちていた。
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宇都紗耶香(17)
Z化後の感染拡大 大里浩一(17)、萬福博吉(75)の2名
同日、須賀涼太(24)により頭部を狙撃され死亡
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