宇都紗耶香(高校生)【9】

「愛璃……!」

 紗耶香は彼女の名前を呼びながら走り寄ろうとした。横倒しのキャビネットをまわりこみ、首をねじ曲げて事切れた女性をまたぎ越え、ガラスや木々の破片を踏みながら。救急車のフロントガラスのまえを――腰から上だけ外に出ている血まみれの人のまえを通り過ぎて、愛璃のほうへ。

 ほかの人たちみたいに血まみれだったり、四肢が折れ曲がったりはしていないようだ。無事かもしれない。咄嗟に避けたのか、運がよかったのか、もしかしたら怪我もしてないかもしれな――

 そのとき紗耶香の思考を中断させたのは、強い力で左腕を引っ張られる感覚だった。愛璃にだけ注意を向けていた紗耶香はなんの抵抗もできず、突然うしろに引き戻された。驚いて声も出せずに振り返る。男の人に腕をつかまれていた。救急車のフロントから上半身だけ伸ばした男の人。真っ白な顔に血が点々と撥ねて、収縮した瞳孔は点のようだ。口のまわりを真っ赤に染めて、裂けんばかりに大口を開けている。紗耶香が硬直して何もできないでいるうちに、その男は彼女をさらに強く自分のほうに引き寄せた。紗耶香の剝き出しの首を、自分の口もとへ。

 このひと、と硬直したまま紗耶香は思い出した。さっき、郵便局のまえで組み伏せられてた――

 男が紗耶香のうなじに嚙みついた。

 悲鳴がのどから迸った。衝撃が全身を貫き、うなじで燃えるような熱さが爆発する。一瞬遅れて炸裂した激痛に、紗耶香の叫びが甲高くなった。頭のなかは動揺と混乱の極みで何も考えられなかったが、身体は男の手から逃れようと必死でもがく。しかし男は紗耶香の左腕と頭をがっしりとつかみ、むしろより深く上下の歯を食い込ませてきた。紗耶香の絶叫が濁る。

 痛い、なんで、痛い、このひとおかしい、痛い、なんで、痛い痛い痛い――。嚙みつかれたところから血が噴き出しているのがわかる。熱い飛沫を頬に受けながら、身体の抵抗が急速に薄れていくのを感じる。血が流れだすのと一緒に四肢の力も抜けていく。視野が赤い靄に覆われてゆく。やばい。やばい、これやばい。

《えー、それじゃアレじゃん――》

 混濁する意識の奥で、史織の声が――いたずらっぽく笑う史織の声が――かすかなひらめきのように聞こえた。

《――ゾンビ》

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