第24話「一回エゴサしてる時にみかけたことあるんだよね」


「風……俗? えっゆうゆって風俗で働いてるの?」


 美子はまばたきひとつせず、固まった表情でそう呟く。風俗、という単語に反応したのであろう、対角線上の席に腰掛ける新聞をひろげたおっさんと思わず目が合ってしまった。


「え、そういうことじゃないの?」

「いや私が言ってるのはこの裏垢のことだよ。この裏垢で、もうしんどいとか、やめようかなぁ、とか愚痴ばっかり言ってるのよ」


 美子はもう一度スマホを俺の顔の前に出してきた。

 なるほど、俺はゆうゆが舌をベーッとだした写真にばかり目を奪われていたが、問題視すべきはそのライトエロなアイコンではなく、そのアカウントで呟かれている愚痴であったか。

 なーんだ。風俗で働いているかもしれない疑惑に比べれば、裏垢なんてすぐ辞めさせられるではないか。本人のモチベーションから改善するには多少時間がかかるかもしれないが、風俗に比べれば裏垢を持っていたことくらいかわいいものというか、小さなアクシデントである。


「あーはいはい、そっちね……」


 俺はあたかもわかっているような口ぶりで、コーヒーカップに手をかける。

 確かに裏垢で愚痴を呟くのは素行不良の一環になるかもしれないが、まぁそのくらい若い女の子の文化ではないか。

 それくらいのことで美子も騒ぎすぎである。若いうちはたいしたことではない問題も大げさに捉えて盛り上げるようなところが俺にもあった。今考えるとそれは日常が暇だからであり、常に自分の心を奪ってくれるような刺激を求めているからであったと思う。小さな問題を大きくすることで、日常を少しでもドラマティックなものにしたいという人生に対する工夫であるのだ。

 なーんだ、心配して損した。しかし、安堵感に包まれた俺とは逆に美子は神妙な面持ちで黙りはじめた。腕を組んでなにかを考えている様子であった。


「けど……もしかしたら長束の言うとおりかもしれない……」

「え?」


 美子は口元に手を当てて、少なくなったゆずスカッシュのグラスをじっと見たまま語り出す。


「ゆうゆ、もしかしたらマジで風俗で働いてるかも!」

「はい!?」


 再び風俗という言葉に反応した、周囲のサラリーマンたちから熱視線が俺たちに注がれる。


「いや、なんかさ一回エゴサしてる時にみかけたことあんだよね」

「と、いうと?」

「なんかイデアの子がその……おっさんと池袋のホテルに入っていくとこみたっていう書き込みがあってね」

「はいいい!?」

「まぁゆうゆだとは書いてなかったし、そういう書き込み見かけたの一回だけだったけど、もしかしたらマジかもしれない。逆に長束一緒に住んでてなんか怪しいことなかったの!?」

「いやまだ1日しか経ってないしなんとも……」

「1日?」

「あっいや、うーん、特に変なとこはなかったかなぁ。ていうかそんなことだけゆうゆを疑うのもかわいそうかと……」

「いや、長束。ここはちょっとゆうゆがガチでやばいことやってないか調べてきてよ」

「え!?」

「万が一、だよ。万が一。私もまさかそんなことはやってないとは思うけど、もしなにかあったら困るのは私たちだよ。だってゆうゆは私たちに黙って裏垢でずっと愚痴つぶやいてたんだから、万が一ってこともあるじゃない」

「いや、それはさすがに飛躍しすぎでは……」

「これは、ハインリッヒの法則ってやつよ!!」

「ハインリッヒ?」

「1つの大きな災害の前には、29の軽傷を負う事故があり、29の軽傷のまえには300のヒヤッとするトラブルがある。つまり大きな事件が起こる前には、小さなトラブルがたくさんあるものなの。つまり小さなトラブルを無くしていけば、大きな事件は起こらないってわけ」


美子は得意げな顔つきで、そのハインリッヒの法則とやらを語り出した。

美子によると1:29:300という割合があるらしく、例えば会社で大きなトラブルや事故が起こる前には、従業員の中が悪かったり、小さなミスがあったりと、細部でミスが頻発していてそれらの小さなミスが大きな事故につながるらしい。

この1:29:300の割合をハインリッヒの法則というようだ。ハインリッヒの法則という名前こそ聞いたことがなかったが、なるほど、ようは「神は細部に宿る」的なことなのだろう。けれどもよくこんなこと知ってるな。


「美子、よくそんなこと知ってるね」

「たまたま最近授業で習ったのよ」

「授業?」

「ほら、大学のね」


 どうやら美子はアイドル活動の傍ら大学にも通っているようだ。まぁどっちが本業なのかはわからないが。まぁ、けどそれもそうだよな。それくらいの年齢だよなぁ。学生生活というのは、もう遠い日の慣習であったので、「学生」という言葉を聞くと懐かしさよりも新鮮さを感じてしまう。しかし、メンバーたちはまだその新鮮さの真っ只中にいる。そりゃ、まだ社会のこともよくわかってないのだろうな。アイドル云々の前に、俺と見ている世界も全然違うのだろう。彼女たちからすると世界は可能性や夢に溢れ、日常は疲れの連続ではなく、夢へのロードマップを歩いているような気分なのだろう。


 それから俺と美子はすでに少なくなったドリンクと、店員さんが運んできてくれた暖かいお茶を飲み干して店をでることにした。最後に暖かいおしぼりを出された時、反射的に顔を拭いかけたが、そこは手にグッと力を入れ拭きたくなる衝動をこらえた。駅に着くまで、美子から「ゆうゆの件、なにか怪しいことがないかちゃんと探ってね。お願いだよ」と3度ほど念を押された俺は、美子と別れてから、大切なことを忘れていることに気付くのだった。


「あ、水着の件話すの完全に忘れてた……」



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