第89話 朝日様を見て為ざるは愛なきなりですわっ!

 翌朝、朝日家のキッチン。五月は一人朝食の準備を進めていた。今日は三人分・・・の量を意識しなければらないのが少しもどかしい。


 いつもなら先に起きているはずの朝日の姿はない。起きがけに部屋の前で、軽く声がけはしたものの反応はなかった。もちろん気にはなるが焦ってはいけない。


 昨晩、ほぼ完徹で深夜子奪還計画は練った。その計画の実行に朝日の協力は欠かせない。少し時間を置いてから……と、五月は食事の準備に取り掛かったのであった。


 ――朝食の準備も一段落の頃合い。梅がジャージ姿でキッチンに姿を現した。


 「あら? 大和さん。お一人でランニングに行かれていたのですか?」

 首にタオルを巻きつけている梅の顔には、少し汗がにじんでいる。きっちり筋トレまで終わらせて来たようだ。

 「まあな、すっかり習慣になっちまってよ。朝イチは身体動かなさなきゃ、どうもしっくりこねえ。あー、朝日は……その……呼んでも、返事がなかったからよ」

 考えることは同じである。見るに梅の表情はあまり優れない。実のところは、気を紛らわそうと一人ランニングに出たのだろう。


 「そうですわね。これで朝食の準備も整いましたので、わたくし、朝日様のご様子をうかがって参りますわ」

 そう言いながら、五月は味見用の小皿に味噌汁を入れて梅に渡す。

 「ん……七十点。朝日の味にゃまだまだだな。んで、そっとしておいてやりてえ気もするけどよ。朝日のやつ、昨日の昼から何も食べてねえしな」

 「くっ、やはり出汁と味噌のバランスが難しいですわね……。それはともかく、昨晩お話した件。朝日様をお慰めした上で、ご協力をお願いする必要もありますので――」

 返された小皿で自分も味見する。最近は密かに料理スキルをみがいている五月である。


 「まっ、頼まあ。悪いけど、俺はちっと風呂で汗流してくるからよ」

 「どうぞごゆっくり。朝食は朝日様も揃って、三人でいただけるようにしますわ」

 「そうだな。期待してんぜ」

 五月に任せたと言わんばかりにニヤリと笑みを向け、梅は手をヒラヒラさせながら風呂場へと向かって行った。

 「それでは……」



 ――朝日の部屋の前に到着。五月は少しばかり緊張の面持ちで息を吸い込み、上品に扉をノックしてから声をかける。


 「朝日様、五月ですわ。朝食の準備ができておりますの。起きていらっしゃいますか?」


 ――――。


 やはり返事はない。五月は心の中で非礼を詫び、ドアノブへと手をかける。軽く力を入れると、鍵が掛かっていないのがわかる。

 (女性たちわれわれと生活を共にしつつ、ご自分の部屋に鍵も掛けない殿方……ですか……うふふ。そう、朝日様らしいですわね)

 自分たちの常識外、朝日の無防備さを改めて噛みしめる。しかし、出会った頃とは違う。感じるのは驚きや心配ではなく、いとおしさだ。


 さて本番。五月は今一度気を取り直し、扉の向こう側へ語りかけた。


 「失礼しますわ。本来なら大変な無作法ですが、五月は朝日様のお身体が心配ですの。お許しくださいませ」


 無断で男性の部屋に入る。なかなかクセになりそうな背徳感だが、そんなものを楽しんでいる時ではない。煩悩を振りはらい、部屋の中へと歩を進める。


 電気をつけるまでもなく部屋は明るい。すでに庭側のカーテンは開け放たれ、朝の光が差し込んでいた。見ると朝日は薄手のパジャマ姿でベッドの上に座り、うずくまっている。


 「あらあら、朝日様。もう、起きていらっしゃいましたのね。大和さんも心配しておられましたわよ。ささ、朝食の準備ができておりますわ。今日はすべて五月が用意しましたので、朝日様のお作りになられた物にお味は届かないとは思いますけど、おほほほほ」

 五月は努めて明るく振る舞い、朝日の元気がない肩に手をかけようと、ゆっくり近づく。

 「…………ごめんなさい」

 途中、朝日の暗く沈んだ謝罪の声が耳に届き、手が止まる。

 「え? ……あっ、な、何をおっしゃっておられますの朝日様。何も謝られることはありませんわ」

 「ううん。何もできない僕が、家の手伝いも出来なかったら……なんの価値も無い……よね」

 「――――っ!?」


 これはまずい。朝日の落ち込み方が五月の想像を大きく上回っていた。背筋が凍りつかんばかりに悪い予感が走り、頭の中は真っ白になりかける。


 「そのような悲しいことをおっしゃらないでくださいまし。朝日様はいらっしゃるだけで充分。五月の宝物ですわ」


 それでも精一杯取りつくろう。つらつらと聞こえのよい言葉を並べながら、心の底で”それではダメだ”と警鐘を鳴らす自分がいる。当然、朝日の自虐は止まらない。


 「でも……僕……。僕は、五月さんに何もしてあげれないよ。男だからって、お金や物は勝手に貰えるけど。だから何。それに、五月さんはお金持ちだし、家はすごい会社だし――」

 五月はわかっている・・・・・・。Mapsの男性メンタルヘルスマニュアル通りでは何も解決しない。いや、朝日相手には悪化する一方だと。

 「あっ、そうだ……はは。うん。じゃあ、僕を、僕をあげるよ・・・・・・。せっかくの男だもんね。僕が五月さんにあげれるのは、それぐらいしかないから……」


 どうする? まずい。どうすればいい? 一秒に満たないわずかな時間。五月は脳が沸騰せんばかりに思考を巡らせる。こうする。ああする。いや、違う、違う違う違う!


 ――そうだ! 脳内に閃光が走った。常識なんかクソっくらえ! その思いつきと同時に、迷いも産まれる。だが、心に力を込めて迷いをねじ伏せる。今こそ、五月雨五月が女を見せる所なのだ!!



 「――――――だきますわ」

 「え?」


 五月は今なんと呟いた? 朝日がそう思うや否や。突如身体はベッドに押し倒され、五月の唇が重なってきた。


 「んむうっ!?」


 青天の霹靂へきれき。だが、朝日には驚く間も与えられない。両手首はそれぞれ五月の手によってベッドに押し付けられロックされた。

 そして、五月の唇によって塞がれた口内に、ぬるりと何か・・がうねるように侵入してくる。


 「ふんんんんっ!? んむっ? ん……ちゅ、……むはっ、ん、ふうん……」

 突然の感触にびくりと身体が跳ねる。口内を制圧され、ねっとりと、優しく蹂躙されてゆく。鼻から抜ける吐息に五月の香りが混じり合う。意識が蕩けていくような感触。朝日はだんだんと力が抜けていった。


 ――――数秒だったのか、数十秒だったのか。貪る五月。貪られる朝日。本能に魅せられた濃密な接吻を二人は終える。


 「ぷはぁ! な……あ、はぁ……さ、五月……さん?」


 すでに両手首の拘束は解かれていた。朝日は目をまん丸くさせ、五月の下から後退あとずさりする。


 「ふっ……ふふ……うふふふふふふ。お言葉通り、朝日様をいただきましたわ!」

 「ええっ? いただくって? えええ――」

 その言動に驚き狼狽える朝日。だが、五月は間を置かずにまくし立てる。

 「でもっ、これでっ、五月は性犯罪者の仲間入り。朝日様がその気でしたら、五月を無期懲役にするのも可能ですわ」

 「ちょっと!? 五月さんどういうこと? 意味がわからないよ。何が……言いたいの?」

 「朝日様。今、貴方のおられるこの国は、そう言う世界なのです。でも、朝日様は違いますわ」


 五月はそう言うと、今度は朝日の顎に指をかけてクイッと持ち上げる。紅潮して色気を増したその美貌がゆっくりと近づく。先ほどの濃厚なキスを思い出し、朝日はカッと頬や耳が赤くなるのを自覚して目を反らした。


 「ほら、やはり・・・照れておられるのですね」

 「なっ、何を?」

 過去になく。朝日にとって男と女を意識させられてしまう五月の言葉と仕草。波打ち続ける心臓を、服の上から片手で押さえつけ、朝日は真っ赤になった顔を五月に向けた。


 「――さ、五月……さん?」


 するとそこには、同じく顔を耳まで真っ赤にしながらも、真面目な表情を見せる五月がいた。ベッド上に正座をして、ベージュのワンピース風部屋着の裾を握りしめる手が心なしか震えている。


 「我々の常識ならば性犯罪者。でも、朝日様ならば……そ、その、こっ、こういった行為も寛容に受け止めてくださるとっ、五月はわかっておりましたわ!」

 「五月さん……それって……」

 「さっ、さささ五月は何ひとつ後悔も反省もしておりません。む、むむむしろ朝日様は五月に、こ、こうゆうことを、しゃれたら、ううう嬉しいはず……ですわっ!」


 つい先ほどまでの余裕はどこへやら。五月はだんだんとしどろもどろになり、ついにはポロポロと涙もこぼし始める。朝日は何となく理解した。五月にとってはしてはいけない・・・・・・・常識。それをあえて破り、宣言する意味。


 「ふ……ふふ、ぷふっ、あはははははは! 何? そのめちゃくちゃな理論。あはは、でも、そう、そうだよね。僕は男だから、うん。五月さんの言う通りだよ。男は好きな女の子からキスされたら嬉しいに決まってるよね」


 五月の懸命けんめいにして滑稽こっけいな様に、思わず吹き出し、笑いながら朝日は肯定する。


 「そっか、五月さんは僕の――わぷっ」

 突然、朝日の視界が柔らかい感触に塞がれる。五月に抱きしめられたようだ。

 「良かった朝日様! 笑って、くださいましたね。良かった……良かったですわ」

 「五月さん……」

 「朝日様。全て、とは申しませんが……わたくしたちも常識の違いはわかってはおります。それでも、すれ違うことや、突然の出来事に戸惑うことは多いと思いますの。ですが……決して、決してわたくしたちは常識・・で朝日を縛ることはいたしません。朝日様が我々に歩みよってくださるように、我々も朝日様に必ず歩みよりますわ」


 涙混じりに五月が語る理由。抱きしめられているからか、五月の想いも身体に伝わってくるようだった。もちろん行き着く答えは一つ。 


 「え……じゃあ……じゃあ……」

 「そうですわ。深夜子さんのこと。突然の出来事で、朝日様のお心を傷つけてしまった常識の相違。ですが、歩みよります。まだ歩みよれるのです。きっと深夜子さんも、大和さんも想いは同じ。それにちゃんとわたくしが対応を考えましたわ。なので、まずは諦めないで、お心をしっかり持ってくださいませ」

 「五月さん……ほんとに? 深夜子さん……帰って来れるの?」


 抱きしめ合う二人。少しの間、五月の胸の中で朝日は泣き続けた――。



 「それでは朝日様。先にキッチンで少しだけお待ちくださいませ。わたくしは身だしなみを整えてから参りますわ」

 「はい。じゃあ、僕はテーブルの準備を済ませて置きますね」

 「ええ、よろしくお願いしますわ。大和さんもまだお風呂ですわね。わたくしがいっしょに呼んで参りますわ」


 朝日の部屋前の廊下。五月は化粧直しを理由に、キッチンへ向かう朝日の背を見送る。そのにこやかな表情には、やりきった感が漂っていた。


 朝日が見えなくなったところできびすを返し、Maps側居住区へ向かう。渡り廊下の扉を閉めたと同時に、にこやかだった表情はビキビキとひきつり、体はワナワナと震えはじめる。


 「ふわあああああああああああっ! 五月のバカッ、バカッ! あれではただの痴女ですわああああああああああああ!!」

 よほど無理をしていたらしい。両手で顔を覆い、絶叫と猛ダッシュで廊下を奥へと駆けていく五月であった。


 数十秒後。


 『んなにいいいいいいっ? おいこら五月。風呂場にまでなんの用だ――って、まだ服着てねえっつーの! は、裸だからっ、やめええええええ』

 『大和さん! 大和さん! 聞いてくださいましっ! 五月はっ、五月はやらかしてしまいましたわああああああ!』

 『ほぎゃあああああああ! 抱きついてくるなあああああ! 触るなあああああああ!』


 風呂場から梅の悲鳴がしばしのあいだ響いていた。着替える前グッドタイミングだったようである。

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