第63話 トラウマと朝日の特別訓練
「ハァ……ハァ……」
転がり終わって動きが停止してから少しの間。
寧々音は床に突っ伏し、肩で息をしていたが、落ち着いたのかパンパンとジャージの誇りをはたきながら立ち上がる。
「ふう……ま、まずまずだったかしら?」
「全然まずまずじゃねーよっ!?」
「目測で九メートル。これが限界距離みたいっスね」
梅のツッコミに、餡子が冷静な分析を返す。
寧々音は強がっているものの、足腰がおぼついていない。産まれたての子鹿状態だ。
「くっ……や、大和先輩!」
それでも、思うことがあるらしく。ビシッと梅を指差した。
「あん、なんだよ。よくも騙したな、とでも言うつもりかよ? お前の訓練だ――」
「男の人に女の手を握らせるとか、何を考えているの!?」
「はあっ!?」
「かっ、かっ、神崎さんが、お婿に行けなくなったらどうするつもり!?」
「はああああっ!?」
寧々音は顔を真っ赤にして、もじもじとしながら話を続ける。
「そんなの、も、もう……私、私。責任を取って神崎さんと結婚するしか――」
「ちょっと待てえええええ! どんな思考してやがんだよっ!?」
「だって……男と女が……手を……繋ぐなんて……ひゃん」
何やら恥ずかしさに耐えられなくなったらしく、両手で顔を覆い。寧々音はその場に座り込んでしまった。
「おい、矢地……もしかしてこいつ?」
「ふむ……閣下の言っていた
「ここまで行くとむしろ面白いっスね」
梅の想像通り。
寧々音は男性への性的知識がやたら乏しかった。もちろん、原因はトラウマに起因する。
この世界の女性が思春期ともなれば、男性への性的興味は
それはもう
ところが、寧々音はトラウマが原因で
つまりは男性に対する苦手意識に加え、
ここで悲劇と言うか、仕方ないと言うべきか。
矢地たちは目に見える
無論、本質であるトラウマは、寧々音が語らない限り認識することができない。
――よって以降に行われた特別訓練の内容は。
◇◆◇
「ふおおおおおおおっ!? あ、朝日さん、指っ、絡めてっ、ちょっ!? あっ、
「おら、餡子! 一分は持たせろよ。手本になんねーだろうが!」
早速、朝日から恋人繋ぎの洗礼を受けている餡子を一番手に『美少年とのスキンシップお手本見学会』が絶賛開催中。
恥ずかしがる十四歳乙女に色々と見せつける。日本の紳士諸兄の一部からは、高い評価を得られそうなシチュエーションだ。
「あっ、あああ、あんなに! おっ、男の人と女の指がっ、濃密に求めあって、絡みあっ――いやあああっ、えっちいいいいいい!」
とか言いながら、ついつい凝視してしまう十四歳思春期真っ盛り。
――続いては。
「おい、矢地。今度は協力して貰うぜ。人目もねえから問題ねえだろ」
「少しやり過ぎな気もするが……仕方あるまい。まあ、既婚者である私の方が神崎君も相手として安心だろう。では笠霧、よく見ておくように」
まさに
それを感じた朝日は遠慮の必要なしと判断する。
手を繋ぐつもりでのばしてきた矢地の手をするりとかわし、その腕に絡みついてぎゅっと抱きついた。
恋人繋ぎの上を行く、ラブラブ恋人腕組みの披露である。
「ほら見ろ笠霧。矢地だって訓練だったらこのくらいすんだからよ。お前の感覚は――」
「かっ、かかかかかか神崎君? そんな積極的に? も、もしかして!? ダ、ダメ! 私には夫が……夫がいるのっ!!」
「てめえが折れてどうすんだああああああ!?」
開始数分で二人がグロッキー状態。早くも残るは朝日現役担当の梅のみ。
ここは、慎重にお手本を見せたいところだ。
「ねえ、梅ちゃん。さっきから気になってるんだけど、笠霧さんの問題ってさ。これで治るの?」
「ん? つか、これ以外に何があんだ? それに短時間で男慣れさせるにゃあ、ちっと過激に行くしかねえだろ」
「うーん、そっかなぁ……。――まあ、それで僕と梅ちゃんは何するの? あっ……ふふん。もしかしてキスとか?
朝日が小悪魔的笑みを梅へと向ける。寧々音にもチラッと視線を送るのが重要ポイント。
「きっ、きききききききしゅううう!?」
ぷしゅー、と音を立てて寧々音の乳白色の肌が、瞳と同じ
「いつも言うなああああああっ! おい、笠霧。冗談だからな? 嘘だからな? 本気にすんじゃ――」
「やっ、大和先輩の痴女ぉおおおおっ! あっ、あっ…………赤ちゃんができたらどうするつもりなのおおおおおお!?」
「できてたまるかあああああああ!!」
とまあ――終始こんな調子で、あれこれと試すも改善の気配は一向に見えない。
これは打つ手なしではないか? 矢地を筆頭に、梅、餡子ら三人にあきらめムードが漂う。
そんな中で、朝日だけは何か思案に暮れている。
「もう時間が無いな。ここまでか……」
腕時計を確認して矢地が呟く。
「あれだけやって縮んだ距離が二十センチっスか……これ、もう無理じゃないっスかね?」
「おいおい。いくら優秀でも、これじゃあ使いもんにならねーじゃねえか」
「――っ!?」
グサリ! 『使い物にならない』その一言が、寧々音の胸に突き刺さる。
フルフルと肩を震わせ、きゅっと下唇を噛み締める。
――薄々は気づいていた。
自分はMapsには適していない。いや、このトラウマを背負って男性警護など、夢のまた夢であることを。
では、過去のトラウマをキッカケに、今まで努力して来たことは? 全てが無意味!?
十四歳の少女には充分な絶望であった。
その
「ひっ……ひぐっ、うえ……うえええええええ」
その場に崩れ落ちるように座り込んで、寧々音は号泣を始めた。
「ちょっと、
「なっ、俺かよ? いや、ちょっと待て餡子! おっ、お前だって、さっきもう無理とか言ってたじゃねえか」
バツが悪そうに擦りつけ合う二人。その前に矢地が進み出る。
「……笠霧。そんなに落ち込むな。今回は無理だったが、ダメと決まった訳ではない。さあ、今日はもうこれで終了にしよう」
「あっ、矢地さん。ちょっと待って下さい!」
矢地が訓練を終了しようとした時。先ほどから黙って寧々音を見つめ、何かを考えていた朝日が口を開いた。
「む? どうかしたのかな神崎君?」
「はい。ちょっと気になることがあるんです。だから、笠霧さんと話をさせてください」
朝日は元々、人の顔色を
それゆえ、寧々音の細かい仕草や言動を観察し――そこに、深夜子とどこか重なる印象を感じていた。
男性に対する苦手意識。恥ずかしいとか、純情とか、そう言ったものでは無いと直感的に理解したのだ。
「おい、朝日。つってもあんなザマでどうするんだよ?」
「ううん。逆に今の方がいいと思うんだ。普通の時だったら、近づくのも大変そうだしね」
朝日は座り込んで号泣している寧々音の前で立ち止まり、高さを合わせてしゃがみ込む。
「ねえ、笠霧さん」
「うえっ? あ、あひっ!? か、かか神崎しゃん。らめ……らめなの、わらしは……あぐううう」
泣きじゃくりながらも朝日に気づく寧々音だが、ぐちゃぐちゃの感情が作用しているのか、最低限のコミュニケーションが取れている。
朝日は微笑んだまま沈黙し、寧々音と視線が合うのを待つ。
「ひっく、え……あにょ……?」
「聞いて、笠霧さん。……君はまだ十四歳なんでしょ? それでMapsの学校で一番って凄いことだと思うよ」
ゆっくり、優しく、語りかけるように言い聞かせる。
「それに何よりも、君の
そして、核心に触れる。
「ひっ!?」
朝日がそれを告げた瞬間! 寧々音の身体が、びくりと強く跳ねあがるように反応した。
ぼーっとした半目を限界まで見開いて、朝日を見つめる。
全身は小刻みに震え、涙と鼻水でくしゃくしゃの表情は、奈落の底でも見ているかの怯えようだ。
「――すごく
「…………………………………………えっ!?」
ピタリと震えが止まり、寧々音は呆然と朝日の顔を見つめ続ける。
そんな彼女の頭を朝日は優しくなでる。白金の細くさらりとした髪がとても心地よい。
「髪の毛もとっても綺麗。ふふふ、僕もこんな妹が欲しかったなぁ」
「そこは相変わらずだな、おい」
朝日お兄ちゃんモード健在!
「綺麗……私の目の色が、綺麗?」
「うん」
「綺麗……私の髪の色も、綺麗?」
「うん、そうだね」
寧々音の
「か、かわ……い、私が可愛い?」
「うん。すごく可愛いと思うよ。妹みたい」
呪縛が解ける。翼でも生えたかのように寧々音の身体は軽くなる。
天に、そう! 天に向けて飛んで行ける。いや、今、寧々音は天に向かって飛んでいるのだ!
「妹……私が、神崎さんの……お兄様の……はうっ!? ――――コヒュッ!」
突如、寧々音が力なく崩れ落ちた。
「えっ!? ちょっ、ちょっと笠霧さん? か、顔が真っ青? 息してない? うっ、梅ちゃん! 餡子ちゃーん!」
朝日のヘルプ要請に、梅たちが急ぎ駆け寄る。
「おいおい、笠霧。息しろって、餡子じゃあるまいし……ん? ……あれ? ――――心臓止まってんじゃねえかあああああ!?」
「「「えええええ(っス)!?」」」
本当に天に向かっていた。
「なにいっ!? これはいかん! すぐに蘇生を行うぞ。梅、餅月、急げっ!」
「どんだけ手間かけんだよ! あー、気道確保して胸骨圧迫だったっけか?」
「AED! AED! っス!」
結果、朝日によるショック療法ならぬ、ショック死療法となった。
――『
これより二年と数ヶ月後――男性への苦手意識も克服し、彼女はM校史上最高成績を収めて卒業。見事SランクMapsとして配属されることになる。
そんな彼女が在学中、口癖のように語っていたのは『愛しのお兄様』の担当になる。であったと言う。
本当に『愛しのお兄様』の担当になれたのか? それはまた別の物語である。
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